南太平洋のピトケアン諸島は、イギリス領の島。
ポリネシア人の住んでいた痕跡はあるが、ヨーロッパ人が18世紀に来た時には無人島だった。
反乱を起こした英国海軍船バウンティ号で逃げてきた9人の英国人と同行した10数人のタヒチ人が現存する人々の祖先。
船をつけることも困難な絶海の孤島

ロープ:崖の下に先史時代の線画があり、古くから人が住んできたことの証拠となっている。ここはその線画を見るために新しく作られた展望台だが、双眼鏡の設置位置が悪く、ギリギリで見えない。場所は肉眼で分かるが線画は確認できない。

バウンティ号の錨:永らく無人島であったこの島にやって来たのは、反乱を起こして逃亡を企てた英国人水夫達9人と彼らにさらわれて連れてこられたタヒチ人女性12人男性6人、合計27人だった。1790年の出来事だが、今も錨が残され、役場の前に展示されている。

バウンティ号の大砲:大砲も道端に飾られていた。船は逃亡証拠隠滅のため焼かれたので、その前に役立ちそうなものをすべて陸揚げされたのだった

クリスチャン洞窟:反乱首謀者であったフレチャークリスチャンは、バウンティ号捜索の追っ手を監視するため、この山上の洞窟から海をいつも監視していたという。

ジョンアダムスの墓:奴隷としてこき使われていたタヒチ人が反乱したことがきっかけで、島で殺し合いが始まり、やがては英国人元水夫同士の殺し合いに発展。逃亡の18年後、この島で彼らが発見された時に生き残っていた大人の男はジョンアダムスただ1人、女性10人、子供23人!と共に暮らしていたという。殺し合いをしまくっても人口が増えている…。ここはジョンアダムスとその妻2人の墓

放置された小船:数十年前には人口が200人を越えていたが、現在は50人。島のあちこちに放置された船や家が残っている。

学校:それまで何もしてこなかった宗主国である英国だが、1999年に発覚したある事件をきっかけに態度を改め、インフラ整備を一気に始めた。現在は生徒がいないものの、高校や大学教育もここで受けられることになっているという。
