2人の世界旅 日々の記録

4年3ヶ月、1日も欠かさず綴った旅日記
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パラグアイ>2010年02月05日(Fri)
★シウダーデルエステ→マリアアウクシリアドラ→ピラポ
:: 旅1002日め : 世界旅178国め : 和人235ヶ国め : あづさ191ヶ国め ::

■世界最大の日本人移住地
ピラポPirapoはシウダーデルエステCiudad del EsteとエンカルナシオンEncarnacionの間にある町で、私たちはエンカルナシオン行きバスに乗り、最寄の幹線道路上の地点で途中下車をしました。ひたすらまっすぐ続く道と、両脇には豊かな緑が広がるだけの、広大なパラグアイの大地に、バックパックとリュックを持ってぽつんと2人。

南米の旅計画を作っていた頃、和人の作る自作の日程表の中にはあづさにとっては見慣れない「ピラポPirapo」の文字が入っていました。よく「○○(国名)ではどこ行きたい?」とあづさに聞いてくれる和人も、「パラグアイではピラポには行くからね」と言っていました。旅行ガイドブックにもまず載っていない、広大な畑が目立つこの場所に、果たしていったい何があるのでしょうか。

少し歩きましたが、残り7kmのところをヒッチハイクしました。今日は朝から45℃という、それだけで頭も朦朧としてしまうほどの猛暑で、ちょっと、その7kmを歩く体力はありませんでした。ヒッチハイクに応じてくれたトラック運転手のパラグアイ人に和人が「日本人で会いたい人がいる」と伝えるとトラック運転手は日系人経営の商店で降ろしてくれました。日系二世のおじさんは、私たちの相談を聞いてくれ、自家用車で「目的地」に連れて行ってくれました。

「目的地」とは十数名の人が集まるゲートボール練習場でした。おじ様方がゲートボールの練習にいそしんでいる中、和人はその中の1人の「園田さん」と出会い、話しを始めたのです。園田さんは和人が17年前に南米を旅してピラポに「興味」を持って訪れたときに、ヒッチハイクに応じてくれた方なのです。偶然のご縁とはいえ、お人柄の優しい園田さんはそのまま和人を家に招いてくれ、数日間を楽しく滞在させてもらったのだそうです。今回和人が「パラグアイではピラポに行く」ことにずっとこだわってきたのは、園田さんにまた会いたかったからなのです。

事前にいくつか手を尽くしましたが、メールアドレスや住所、電話番号を知らない和人は事前のアポイントを作ることはできませんでした。だからこそ今日はすんなりと無事に再会できて本当に良かったです。和人が「今回は嫁さんと一緒です」と園田さんに言うと「立派な嫁さんもらって君も立派になったなあ」と言ってもらえ、更に嬉しいことに「どこ泊まるんだ? うち来るか?」とお誘いの言葉までいただくことができました。

ゲートボール大会が近いようで、練習も活気があります! 「ゲートボールは老人くさいスポーツ」なんて印象を持っている人もいるかもしれませんが、その練習風景を見ているほどそんなイメージはなくなっていきます。ルールも難しそうで、「頭脳プレイ」が要求されることがよく分かります。あづさが一人のおじさんに「難しそうですね」と言ったら「はっはっは、難しいよ」と答えてくれましたっけ。

パラグアイ

しかしホント暑い、気温40℃以上あるので暑いっ! テレレ(冷水で出したパラグアイのお茶)を何杯も飲んでしまいました。

ゲートボールの練習が終わったとき、園田さんはビールを買ってくれて、暑い中みんなで冷たいビールを飲みました。そして夜は園田さんのお声かけで、ゲートボール仲間も含めて親しい友人がチュラスケリア(パラグアイの名物、塊肉を焼いて卓上で切り分けてくれるレストラン)に集合し、私たちを囲んでの美味しいお肉パーティーが開かれました。集まりの冒頭に園田さんは17年前の和人とのエピソードを皆に紹介してくれたので、今回和人がピラポを訪問したかったことやそれに対する園田さんのお気持ちが、みんなにも -もちろんあづさにも- よく伝わりました。

南米をある程度長く旅する人ならば各地で日系人に出会う機会があり、彼らは何故日本から南米に移住したのかといったことを含め、日本人の南米移住についての興味をきっと持つことと思います。簡単に言えば和人が17年前にピラポに来たのもそういう興味を持ったからでした。

日本からパラグアイ移住がスタートしたのは昭和11年です。戦争中は一時中断しましたが、戦後はより活発に移住が推進されました。戦後の移住者は、昭和27年から47年の21年間を記した記録によると、その期間だけでも6684人にのぼります。ピラポ(最初はアルトパラナ移住地という名称だった)は1960年、今から丁度50年前に移住開始、戦後のパラグアイの移住地としてはチャべス、フラムに引き続いて3番目(戦前を含めると4番目)の日本人移住地です。移住政策は、例えば私たちも訪問したドミニカ共和国のように訴訟を起こすほど失敗したところもありましたが(≫こちら)、ピラポはその対極です。農業面で成功し、現在では日本人入植地として世界最大規模の町を作っているのです。これは本当に素晴らしいことだと思います。

園田さんと近しい友人が集まったチュラスケリアでは、若い日本人のグループが来ていて、その中の一人の誕生日パーティーを開いていました。彼らはいわゆる「日系二世」(移住者を一世とすると、移住地で生まれた一世の子)です。二次会で行ったスナックでも二世たちと一緒で、あづさは若い彼ら(二十代くらい?)と少し話をすることができました。

びっくりしたのが、彼らの日本語の流暢さです。パラグアイで生まれてパラグアイで育った場合、日本語ソースは両親との会話、学校の授業、そしてNHK番組しかないはずなのに、中年の言葉でもない、学校教育の言葉でもない、NHKの言葉でもない、「現代の若者の日本語会話」を話しているんですよね。「すごいなー、彼らはどこでそんな言葉覚えるんだろう」と不思議でたまらないくらいです。

ブラジルなど、二世であっても日本語を話せない人は大勢います。先日私たちがアルゼンチン北部で出会った合気道師匠のハマダさん(≫こちら)も日本語を話すことができません。でもここはまるで日本社会。二世にも三世にも日本語が、今の日本本土と変わらないレベルで受け継がれているピラポは良いところだなと思いました。


今日は本当に嬉しいことだらけですね。和人が17年前にお世話になった人と再会できたことも嬉しい。そのお相手である園田さんがご健在であったことはすごく嬉しい。園田さんもまた17年前に拾った(ヒッチハイクで、です)和人が再び訪れてくれたことを喜んでいるようで、そういう様子を横から見ていることも嬉しい。和人も17年間の思いにいろいろな喜びを付加していることでしょうが、今日が初めてのピラポ体験となるあづさも、すごく嬉しい気持ちになっていたのでした。
本日の旅
行動 :シウダーデルエステからピラポへ移動、ピラポ滞在
朝食 :Cardo de gallina(カルドデガジーニャ、鶏ときんかん入りスープ)、パン、mandioca(マンディオカ、ゆでキャッサバ芋)/シウダーデルエステの食堂
昼食 :Aforado(アフォラード、鶏手羽フリット)、mandioca/マリアアウクシリアドラの食堂
夕食 :アサード(焼き肉)、mandioca、フリホレス(煮豆)、エンサラダ(レタス玉ねぎトマト)、ポテトサラダ、arroz(アロース、ごはん)、ビール、スプライト、ゆでキャベツ、人参小玉ねぎピーマンのピクルス、ココナッツケーキ/ピラポのチュラスケリア(焼き肉屋)
宿泊 :園田さんのお宅
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旅情報
1グアラニー=0.02円

*シウダーデルエステからピラポへの移動
直接行くバスはない。エンカルナシオン行きバスに乗ってピラポの中心部へ入る分岐のところで途中下車する。料金はエンカルナシオンまでのものより多少安くなるので、要交渉。私たちは分岐点まで1時間かかりました。分岐点からは7kmの道のりがあるので、徒歩かヒッチハイクで移動することになります。また、エンカルナシオンからはピラポへ行くミニバスが走っているそうです。