2人の世界旅 日々の記録

4年3ヶ月、1日も欠かさず綴った旅日記
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ナミビア>2008年05月13日(Tue)
★サンタクララ行き夜行バス→サンタクララ→オシカンゴ→オンダングワ→オシャカティ
:: 旅369日め : 世界旅63ヶ国め : 和人214ヶ国め : あづさ84ヶ国め ::

■悲惨なバス移動
昨日の日記にあるように、私たちの乗った夜行バスが重篤な故障を起こしたため、乗客の多くが後続の満員バスに詰め込まれるようにして目的地へと移動しました。吊り革もなく人の幅すらもない狭い狭い通路に、未舗装でガタガタと大きくうねるような道を走り続け、私たちは、悲惨も悲惨な移動を強いられたのです。

やっと座れたのが、この日の午前3時すぎ。なのに、目的地サンタクララSanta Clara(アンゴラ南部、ナミビアとの国境の町)に到着したのが午前5時すぎ、結局座席ではほとんど眠る時間がなかったのです。

私たちが持つアンゴラビザは、5日間のトランジットビザで、しかも今日が入国して5日目にあたりますから、どんなにしんどくても今日中にアンゴラを出国してナミビアに行かなくては・・・。

■アンゴラ最後の観光
朝7時くらいまであづさはバス車内で仮眠していました。そしてその後、アンゴラ最後の観光をしようと、サンタクララの町を2人で歩きました。町歩きはそれなりに楽しく、特に民家が集まる細い道を歩いたので、人々の素朴な暮らしの様子を見ることもできました。特に印象深いのが、ビール瓶をコンクリートで固めたような、「ビンの家」です。

ビンの家

短い訪問を終えたあとは、余ったクワンザをUSドルに変えました。そしてお昼ごろ、歩いて国境を渡り、ナミビアの地面を踏んだのでした。

■アンゴラの旅を終えて
「アンゴラ行ってきたよ」っていう人、なかなかいないですよね。近年はビザ取得も一層困難になり、周辺国でさえトランジットビザすら取れないところが多いという状況です。そして私たちが苦労の末に取ったビザは、5日間トランジットビザ・・・しかし、5日でアンゴラを渡るには、あまりにアンゴラは巨大な国です。そして、私たちは、2000kmにも及ぼうかという道のりを、実質4日で移動せざるを得ず、当然、それは体にも心にも辛い旅でした。

ポルトガルから独立した直後から米ソ冷戦の縮図ともいえる内戦を続け、共産国化とその放棄を経て、21世紀になりようやくこの国は内戦が終わりました。

でもね、廃墟もたくさん見たけれど、内戦が終わって喜んでいる人々もいっぱい見ました。「戦争が終わって嬉しいよ」なんて私たちに言うわけではないけれど、でも、生き生きとしている人々が、いつも視界にいてくれたのは、確かなの。

エネルギッシュに再建している光景も、至る所で見られました。道も建物も、先進国型巨大ショッピングモールもといった具合です。ダイヤモンドや鉱物や石油が豊富に採れるこの国ですから、きっと国を整備する速さは指数関数的に右肩上がり。地雷を除去し、戦跡をなくし、やがてアフリカの偉大な国になっていくのかもしれません。

ところでこの日記を、サントメプリンシペあたりから素通りでなく読み返してくだされば、私たちの状況でアンゴラから陸路でナミビアへ抜けることは通常ならば有り得ない状況だったことが理解できるかと思います。有り得ないことを許容してくれた和人は、最後は「あづさの行きたかったところに連れて行く」と言ってくれました。

「エンシュージアズミック・アンゴラ」・・・厳しい旅のさなかでも私を支えていた、アンゴラを熱望するという意味合いをもつこの言葉。行きたいと熱望していたこの秘めた国で、行って、見て、知って、そして無事に旅を終えることができ・・・、振り返ると、ついこの間の旅なのに、遥か昔に見たかのような映像が脳裏に浮かぶ・・・。

かつて・・・アフリカの旅をしようと持ち上がった頃・・・、和人に「アフリカのどこ行きたいの」と聞かれ、あづさが最初に答えたのが、「クネネ(アンゴラ南部の地域名)」。

ああ、なんだか、懐かしいナ。憧れていた土地は、憧れていた時間の長さからすると一瞬の滞在でしかなく、それこそあっという間に駆け抜けてきたアンゴラの旅。でも、昔なるそのときから、アンゴラを抜ける最後まで、長い間いっぱいいっぱいいろんな考慮をしてくれた和人には、心から、ありがとうと思っています。

■中央部アフリカの旅を終えて
アンゴラの旅の終わりは、私たちにとって、中央部アフリカの旅の終わりでもあります。
(コンゴ民主、いわゆる旧ザイールなどは、東アフリカ側から訪問する予定です)

西アフリカ諸国と較べて、正直なところ、中央部アフリカは観光する名所は少ないです。そして決定的に、ビザが取りにくく入国が許可されにくいこと、更に悪徳ポリスによる恐喝地獄や、行けば命に関わり得る政情不安が、旅を困難にしています。

中央部アフリカの始まりは、カメルーンに入った2月20日でした。

カメルーンでの暴動とその避難、戦争を始めたチャドへ行く苦しい決断、中央アフリカの恐喝ポリスによる賄賂要求の道、マラリアを発病したがためにカメルーンビザが切れ、中央アフリカ内でのルート変更、そして、コンゴ共和での2度もの強盗との出遭い、至上最強の“金クレ星”赤道ギニアでのポリスとの戦い。アンゴラビザが取れずサントメプリンシペ行き船を待ち続けた長いガボン、アンゴラビザが取れず再び待ち続けた長いサントメプリンシペ。アンゴラからの出国を空路から陸路へと変え、短い時間で長い移動をに耐えた辛いアンゴラの旅。

中央部アフリカの終わりは、アンゴラを出た5月13日でした。8ヶ国しかないのに11週間も遣い、予定よりも大幅に時間がかかってしまいました(西アフリカは16ヶ国を16週間でまわっています)。何故? 一番の理由は、ビザ待ちと船待ち、次いであづさのマラリア。大幅に時間が狂うのは、中央部アフリカの旅の特徴かもしれませんが・・・。

あづさは、「アフリカらしいアフリカを見たい」という想いをずっと根底に持ち続けて、アフリカに来ました。こんなことを言うのは不謹慎なのかもしれませんが、正直、西アフリカをどんなに旅をしていても、観光地化の進んだ西アフリカめぐりでは「もっとアフリカらしいアフリカはほかにあるはず」という未達成の気持ちを残したままだったのです。

でも今は違います。特に、中央アフリカやコンゴ共和を訪れ、恐喝ポリスや恐怖と戦いながらも、観光客に排他的な場所で地元の人とも触れ合えた。恐怖感が強い地域だからこそやっと、私なりの価値感で「アフリカらしいアフリカ」を見れたと思えた。でも幸い辛い嫌だ嫌だと思い続け、この地域から出ること抜けることを思うことは、多分一度もありませんでした。辛いときも苦しいときも、逃げ出す気持ちが沸かなかったことは、これからどこでだって旅ができる自信が少しついたようで、嬉しい。



 中央部アフリカを渡りきったことで、やっと、「アフリカに行ったよ」と、言えそうです。
 それまでは、「アフリカに行ったことがあるよ」という気持ちだったから・・・。



今日は、中央部アフリカの踏破と達成感に嬉しい一方で、体はきつい旅の直後で本当に疲れています。それでも今日は、ナミビア国境オシカンゴOshikangoからいったんオンダングワOndangua、更にオシャカティOshakatiまで頑張って移動しました。オシャカティで(疲れてお酒も飲む気力がないのか自ずとコカコーラを選んでしまいましたが)、中央部アフリカ踏破の乾杯をしました。

和人と一緒に戦ってきた苦しい中央部アフリカと戦いきったよ・・・
ほんと、頑張った。

・・・長かった、きつかった。でも辛くてきついときのほうが、普段の緩やかな旅よりダンゼン楽しいの。これ不思議ね。

「アフリカらしいアフリカを見る」アフリカ一番の醍醐味の旅は、もうおしまいかもしれないけれど、寂しさをひきずらず、ここナミビアから、新たな、明るい気持ちで、希望に溢れる旅を始めようと思います。
本日の旅
行動 :サンタクララへ移動、アンゴラ出国、ナミビア入国、オシャカティへ移動
朝食 :昨日の晩ごはんの残り/バス車内
昼食 :シフィーマ(とうもろこし粉をお湯で炊いたもの)、フォーファ(炭火焼きチキン)にマコンディ(赤豆のシチュー)をかけトマトオニオン緑ピーマンサラダを添えたもの/オシカンゴの路上ごはん屋
夕食 :サバの塩焼き、フライドポテト、パン/宿
宿泊 :ウークンウェルームズUukumwe Rooms

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旅情報
1アンゴラクワンザ=1.4円
1ナミビアドル=14円

*ナミビア国境からオシャカティへの移動
私たちは北部の中心都市オシャカティへ移動するのに、乗り合いタクシーを使った。国境オシカンゴからはいったんオンダングワで乗り継いで行く必要があるのだそう。オシカンゴ→オンダングワまで1人20ナミビアドル、オンダングワ→オシャカティまで1人10ナミビアドル。実際の言い値はもっと高いが、比較的楽に値段を下げることができた。