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2024スペイン、アルジェリア»10日目 ティンドーフ(空港-ラユーン難民キャンプ-アウセルド難民キャンプ)
西サハラ難民キャンプ訪問とスペイン全自治州訪問完了の旅
2024年04月30日(Tue)
10日目 ティンドーフ(空港-ラユーン難民キャンプ-アウセルド難民キャンプ)
マドリードを出発して約3時間半でアルジェリアのティンドーフに到着する。出発は1時間遅れだったが、到着はほぼ定刻。1時間の時差があり、到着はアルジェリア時間の午前2時半だ。
通常は国内線しかない空港だが、イミグレーションで入国スタンプをもらうまでは、それほど時間はかからず。しかし、その後の税関の前で足止めを食う。団体ビザで行動が縛られているので、全員の荷物が出てきて、チェックが済むまで外には出してもらえないのだ。ようやく外に出られたのは到着の2時間後のこと。
飛行機一機分の団体が移動するだけのバスはなく、バス、ジープ、乗用車など多数の車に分乗していくらしい。すでにスケジュールはかなり遅れているが、遅れている車があるようで、中々出発できない。
空港で開いている唯一店がこちらのカフェ。アルジェリアのお金を持っている人は待つ間コーヒーなどを飲んでいる。両替所はなく、ATMが一台あるが、誰も使っていないので、手は出さず。両替は難民キャンプのホームステイ先か商店でするものらしい。
メニューはアラビア語ではなく、フランス語。1ディナールは1円強なので空港にしては安い価格だ。しかし、エスプレッソがクリーム入りエスプレッソの倍料金は何故だろう。
ようやく準備が整って前後を軍に守られたコンボイで出発したのが5時半のこと。まだ真っ暗である。ビザの問題でティンドーフの街に行くのは難しく、せめて車窓からと期待していたが、何故か目的地のアウセルド難民キャンプではなく、ラユーン難民キャンプ方面に向かい、ティンドーフは車窓からも見れなかった。ラユーン難民キャンプの手前で検問。車の台数が多いのでかなり待たされた。難民キャンプといっても普通の砂漠の町っぽく、商店や食堂が見えた。バスから降りることはなく、続いて目的地であるアウセルド難民キャンプへ。途中で明るくなってきた。到着は7時前。舗装で良い道の40キロに1時間半もかかった。
モロッコの西サハラ侵攻から逃れた西サハラ難民のためのキャンプがティンドーフに開かれたのは1976年の事。すでに50年近くになり、住民の多くはここで生まれ育った人々なのだ。領土から逃れたサハラ・アラブ民主共和国政府もここにあり、サハラ・アラブ民主共和国政府の実態であるポリサリオ戦線がキャンプを運営している。キャンプは5ヶ所に分かれ、西サハラの地名がそれぞれにつけられている。ラユーンは西サハラ最大の都市で、サハラ・アラブ民主共和国の首都と定められている。西サハラを訪れる時は必ず通る交通の要所でもある。アウセルドは西サハラ南部にある町。モロッコ支配地域の最前線となっており、旅行者が訪れることはほぼない砂漠のオアシスである。
今日から1週間、3-4人づつに分かれ、難民の家庭でホームステイする。到着した広場に各家庭から迎えが来るそうで、ここでも長時間待つ。
待っている間に日の出。7時ちょうどくらいだ。
子供たちの登校時間。歩いていく子が多かったが、自転車で通う子供もいる。
近くでパン屋があるのか、パンを買って歩く人もチラホラ。アルジェリアはフランス領だった影響で、パンはフランスパンが主流だ。
我々のステイ先からは迎えが来ず、空港から来ていた車の一台で送ってもらうことになった。同宿になるのはスペイン人とイタリア人の夫婦で、今はイタリアに住んでいるそう。ある程度の英語が話せる人でホッとする。参加者のほとんどは英語は話せないスペイン人なのだ。
ホームステイ先は歩いてもすぐの場所だった。難民の家庭といっても、近隣の国々でもよく見たような砂漠地帯にある普通の家庭だ。西サハラやモーリタニアで訪れた家庭よりも広くて快適そうに見える。テントで寝るのかもしれないと思っていただけに、寝る場所としてあてがわれた応接間は非常に快適な場所だ。
キッチンには大きな冷蔵庫があり、ガスコンロが設置されている。水道はなく、水はポリタンクの水を使っているので、洗い物は大変そう。
朝食はフランスパンに6Pチーズ、ジャム、エスプレッソ、牛乳、オレンジジュース。
食後にミントティーを入れてもらう。砂漠の民のおもてなしだ。伝統的なお茶を入れる時は炭火を使っている。茶葉は中国からの輸入品。
ほとんど寝ていないが、元気なのでフィサハラの行事が始まる前にマーケットを散歩する。難民キャンプといっても建物は基本的にブロックやセメントを使ったしっかりした建物ばかり。伝統的なテントもあるが、涼しいので使っているだけで、テントだけで住む家庭はない。
商店の品揃えは豊富で、キャンプ外よりも豊かなのではないかと思われる。
肉類は、ヤギ、牛、羊、鶏なども食べるが、もっぱらラクダ肉を食べている。ラクダ肉屋は数軒並ぶが、他の肉は商店の冷凍庫で売られている。
肉は欲しい部位をどれくらいなどと注文するが、全部一緒に計量しており、部位による値段差は無い。
服屋にかかる服を見る限り、サハラウィ(西サハラ人)の服装はモーリタニアと同じだ。
午前10時だが、太陽の高さは高く、日陰は少ない。店はほぼ開いているが、お客の姿はほとんどない。
雑貨屋。よく見るとカルカデやミスワ(歯ブラシになる枝)など砂漠らしき商品がいくつもある。
家畜市の場所なのか、動物用の囲いがたくさんある。その外でヤギはのんびり。
商店で両替をお願いする。アルジェリアディナールのレートは事前チェックでは、1€=143ディナールだった。ところが1€=1150だという。115なら143に比べあまりに悪いので、ディナールからユーロを聞くと1200との返事。売り買いの差が4%台というのはまともだが、何かがおかしい。すこしレートを交渉し、良くしてもらった後、20ユーロを渡したところ、4650ディナール来た。???意味が分からずこんがらがってしまった。結局両替は後で来ることにして両替は一旦キャンセルする。
実はサハラ・アラブ民主共和国の通貨としてサハラウィペセタというものが存在し、その単位が今も使われているのだった。欧州の通貨統合前はサハラウィペセタはスペインペセタと同額固定だったので、統合でスペインペセタと同じレートすなわち166ペセタ=1€となったらしい。当時のレートでは1ディナールが5ペセタ、そのままレートは固定された。難民キャンプ内では値段表示はペセタで会話でもペセタをずっと使ってきた。しかし、実際にはペセタ紙幣は存在しない。値札に2000とあればそれはペセタだが、支払いは400ディナールを使っている。
そして先ほどの両替レート。1150ペセタは230ディナールだ。なので20€x230=4600に色を付け、4650ディナール来ていたのだ。つまり1€=232.5ディナール。公定レートの倍近いブラックマーケットだ。後ほどネットを見ると日々のブラックマーケットレートも公表されており、この時のレートは1€=238ディナールが中値なのだった。普通の商店なので十分正直なレートで両替しようとしてくれていたことが分かった。
野菜も果物も難民キャンプ内では作っていないと思われるが、新鮮なものがたくさん入っている。値札を見てバカ高いなぁと思っていたが、実際には結構リーズナブルな値段である。1000とあるのが1000ディナール、円換算で1100円だと思っていたのが、1000ペセタ=200ディナール、円換算は150円くらいなのだった。
フィサハラ開会時間が近づいてきたので会場にそのまま歩いて向かう。
多くの家庭の庭には水のタンクがあり、そこに給水車が来るそうだが、それ以外にもタンクがあり、そこに水を汲みに来ている人もいる。
子供たちは女の子でも写真を撮ってもらいたがってかわいい。
市場の一角にいたヤギたちは汚い場所にいたが、多くの場所に買われているヤギ達はきれいできちんと手入れもしてもらっているように見える。
フィサハラの会場が見えてきた。テントがたくさん張られており、賑やかな声も聞こえてくる。
開会のセレモニーが体育館のような建物内で行われているが、それよりもテントがおもしろい。西サハラ時代の出身地コミュニティーごとにテントを張って、伝統文化の紹介をしてくれているのだ。
テントに入るとまずウェルカムドリンクでズリーク(ラクダ乳酒)をいただく。暑くて乾燥した砂漠にぴったりの飲み物だ。皆さん回し飲みをする文化だが、我々には新しく入れてくれる。
そして、お茶。お茶は入れるのに時間がかかるが見ているだけでも楽しい。
大きな塊の砂糖を叩き割って使っている。
写真好きの皆さんはムスリムであってもスマホの自撮りをする時代だ。
セレモニーの行われていた体育館の一角には土産物が並んでいる。
ヤギの皮を使った水袋は砂漠の伝統文化だ。砂漠を旅するトラックの周りにたくさん積まれていたのを思い出す。
顔を隠している女性も実際にはカメラ好き。
飲み物をいただいた後は一緒に歌を楽しむ。舌を左右に動かして出す音がおもしろい。
女性の多くは手に美しいヘンナを施している。
昼が近づくと各テントでは食事を作り始める。テントの中で火を使うのは危ない気もするが、外では砂が入るので出来ないのだろう。
ザルで蒸かされていたのはクスクス!
右の鍋で煮られていたのは、干したラクダ肉(ティシュータ)で、チードゥギという料理だ。
もう一つ圧力鍋で茹でられた肉料理はラハム。ラハムは単に肉という意味だが、通常の煮るという調理法だとそのまま料理名にもなる。肉といえばここではラクダ肉を指す。
大きな皿に盛られたクスクス&ラハムを地元の人と一緒にいただく。この肉は柔らかくてすごく美味しかった。
テント内ではクスクスを囲む人の輪がたくさん出来ている。
食事が終わるとまた調理の続きだ。チードゥギをついてほぐしてゆく。ほぐれてくるとゆで汁を加えさらにほぐす。
チードゥギを皿にあけ、ついてもほぐれなかった繊維を手でほぐす。味見をするとこれでも十分に美味しいのだが、まだまだ手を加えていくらしい。残念ながら時間がなく、ここで退散。
ホームステイは3食付きなので昼食時間には戻らないと心配されてしまうのだ。急いで家に向かう。そういえば開会セレモニーが終わっても、数百人いるはずのスペイン人を主とする欧米人はテントに現れずだ。みなさんステイ先にまっすぐ戻ったのだろうか。
ホームステイ先の子供にお土産を持っていって欲しいと事前に言われていたので、姪っ子が子供の頃に集めていたキャラクター付き文房具をもらって持って行ったところ、大喜びしてくれた。
昼食はクスクス。掛ける煮込みは野菜も入ったタジンだ。肉は先ほど市場で買ったラクダ肉。美味しくバランスも良いが、欧州人とスプーンを使って食べるクスクスと地元の人と同じ大皿から手で食べるクスクスを比べてしまうと、楽しさがあまりに違う。
昼間は非常に暑く、少し昼寝。そしてシャワーを浴びて洗濯をする。
夕方、涼しくなってきたころに再びフェスティバル会場に戻る。
テントに入るとデーツを勧められた。ヤギミルクの脂肪に浸けてデーツを食べる。
正装をした男性が歌い、女性は手拍子と舌を横に震わせる音を出す。
ダンスを見せてくれた子供達。
女性の踊り。
革袋からズリーク(ラクダ乳酒)を出し、勧めてくれる。何杯飲んでもこれは美味しい。
リグリーエと呼ばれる炒った麦はそのまま食べるおつまみだ。
おじさん達が土産物屋に売っていたお土産をくれた。両替する必要はもうないかも・・・。
踊りの練習をする子供達。
チェッカーに似た陣取りゲームに興じる男性。
踊る男性。この男性は非常に踊りが上手で、いろんなテントに呼ばれて踊りを披露していた。
ゲームを楽しむ女性陣。赤いじゅうたんの上にあるのがさいころの役目を果たす棒で、それを投げて、出た目に従って、砂の上のコマを動かしていく。
伝統的な道具類を展示して、中で横になって休んでいる人がいるだけのテントもある。
大麦の粉をお湯で練って作るブルグマン。ラクダのミルクと練りながら食べる。日本のはったい粉やチベットのツァンパを思い出す食べ物だ。
ラハムミシュウィは、ラクダ肉の炭火焼き。香ばしくてうまい。
日没時のお祈りの時間。テントのすぐ外でお祈りをする。
スマホの翻訳機能を使って色々説明してくれた女の子。
暗くなると野外舞台でセレモニーが始まった。テントでも見た歌や踊りがたくさん披露されていく。出演者の中にはテントで会った人もいる。
観客は欧米人と地元民で半々くらいか。
ショーが終わるといよいよ映画が始まる。もともと今回のイベントはフィサハラと呼ばれる国際映画祭で、連日野外で数本の映画が上演されるのだ。それに合わせて飛行機がチャーターされ、通常は入域許可をとるのが難しい難民キャンプに一般人が訪問している。サハラウィ(西サハラ人)の伝統文化を見せてくれるテントは、この国際映画祭に合わせて行われているに過ぎない。小さな展示程度に思っていたテントが、これほど楽しいと思わず、ものすごく堪能できてしまった。昨夜はほぼ徹夜で、昼寝も1時間弱だったこともあり、映画の時間にはもうくたくた。映画を見ず、ホームステイ先に戻ることにする。
夜9時半頃に家に戻り着く。庭では炭火を起こし、鶏肉を串焼きにしていた。ピンチートの名前はスペイン語由来だ。西サハラは元スペイン領サハラ、その時代に串焼きがスペインから入って来たのだろう。
夕食はフランスパンとピンチート。
テントで色々食べているので夕食はピンチートで十分だったが、30分ほどして今度は目玉焼きとハムのフライが出てきた。ハムは七面鳥のハムだそう。
もうお腹はいっぱいだ。テントで何も食べていない前提で食事を出してくれるのに、実際にはテントだけでも食べすぎなくらい色々なテントを回って食事をいただいている。完全に食べすぎ・・・。
11時半、食事が終わったころに同宿の夫婦が戻ってきた。その時間でも眠くて最後の映画は見ずに戻ったそう。最後まで見ていたら何時になるのか。
我々はもうぐったりで、先に寝させてもらった。