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~クリミア、北コーカサス、カラムイク~
17日目 ウラジカフカス→ダルガフス(周遊ツアー)→ウラジカフカス
北コーカサスでどうしても訪れたいと思っていた唯一の場所が、ウラジカフカス近郊の村ダルガフスにある「死者の町」である。
詳しい経緯は今もサイト内に残してある
昔のトップページにあるが、リンクを張っても読む人は少ないと思うので、転記しておく。
北オセチア共和国 → 訪問できなかった憧れの地
痛ましい事件で有名になったロシア連邦内の北オセチア共和国ですが、つい先日までは名前を知っている日本人はごく少数だったと思われます。しかし、私にとっては数少ない行き損ね、今も行きたいと考える場所が、ここにあるのです。一年も経てば忘れられそうな北オセチア共和国の名ですが、少しでも覚えておいて欲しく、少し紹介しておきます。
その存在を知ったのは88年、「地球の歩き方・ソ連編」の初版が書店に入荷された日です。なんとなくした立ち読みで、北オセチア共和国ダルカフス死者の町の写真が目に焼きつき、当時ガイドブックは古くなるので旅行の予定が出来るまで買わないと決めていたのに、つい「禁」を破って、翌日に購入。ソ連旅行に思いを馳せたのでした。
そして93年、崩壊したソ連の領域を旅する機会がようやく巡ってきました。当時のロシアビザは、ソ連の時のままで、ビザで訪問都市を限定、つまりビザ申請時に訪問都市を希望し、許可を得なければなりませんでした。そこでモスクワと北オセチアの首都ウラジカフカスを申請したものの、大使館員に治安が悪いと拒否をされ、急遽グロズヌイなど周辺都市を片っ端から申請、ことごとく跳ねられた上に、コーカサス地方に行きたいのであればビザ発給しないと脅され、訪問を断念したのでした。
当時、グルジアとタジキスタンで激しい戦闘が行われていたし、モスクワでもクーデター騒ぎはあったが、外務省の渡航情報は注意喚起のみ。その後、97年12月に近くまで行く機会があり、迷いましたが、真冬にロシアは…と中止。98年からは、渡航情報が渡航延期勧告に引き上げられ、99年には家族等退避勧告にさらに格上げ。その後も最高ランクの渡航情報が出たままで、ついに今回の事件。観光旅行が楽しめるのは、いつになるやら。
上記文章を書いたのは、少なくとも334人が殺されたとされるベスラン学校占拠事件のあった2004年9月である。事件からすでに14年になるが、今も北オセチアが完全に平穏になった訳ではなく、日本の外務省は「渡航中止勧告(既に滞在中の方は,退避手段等につきあらかじめ検討してください。)」を出したままとなっている。2002年に渡航情報の表記が改められたが、98年以降の20年間ずーっと北オセチアには行かないでといっているのだ。それよりも前、注意喚起のみだった時に行こうとしてロシア側から止められていることもあり、もう一生行けないかなと正直思っていた。しかし、一昨年、昨年とロシアをひと月ずつ旅をし、それに伴い様々な情報を集めた結果、すでに旅行者は戻りつつあり、今なら大丈夫という確信を得た。様々な検討の結果、ここまで来たが、「渡航中止勧告」が出ている以上何かあれば非難されるという覚悟で、細心の注意を払いながら旅をしている。
さて、ダルガフス訪問である。公共のトランスポートは、夕方にウラジカフカスからダルガフス、早朝にダルガフスからウラジカフカスしかないらしく、それさえ毎日あるのかどうかわからない。訪れるならツアーに申し込むか、行ってくれるタクシーを探すかとなる。ツアーなら他の見どころにも連れて行ってもらえるし、安心なので今回はツアーに申し込んだ。
朝9時、約束の時間にツアーのピックアップが来た。申し込みをした昨日は車チャーターで1台4000ルーブル(約7000円)という約束だったのに、他に2人見つかったのでシェアしてくれといきなり頼まれた。安くなるなら良いと思ったが、500ルーブル下がって3500ルーブルになるだけだという。さっさと出発したかったので断ったが、ドライバーは粘って頼んでくる。新たに見つかった2人と約束してしまって他の車が手配できないに違いない。1台4000ルーブルだったものが1台7000ルーブルは取りすぎだから安くしろ交渉してみたものの、車のグレードが違うとらちがあかない。時間が惜しいのでシェアを承諾する。交渉と相客ピックアップで時間がかかり、実際に出発できた時には9時40分を過ぎていた。今日は快晴で、街の中でもコーカサスの雪山が良く見える。
街を出て車は東に向かう。この道は、南オセチア共和国に向かうメイン道路、旅行会社のミスがなければまさにこの日に南オセチアに向かっていたのになとの思いが頭によぎる。最初に見学したのはオセチアの英雄ペテルバルバショフ像のある軍事記念施設。巨大な像と兵器の展示はいかにもロシアである。
メイン道路から外れる前に、商店でストップ。朝食をとっていなかったので食べ物を買おうとしたら、運ちゃん(兼ガイド)がオセチア名物だという揚げパンを買ってくれた。メイン道路を外れてると正面にカフカスの山並みが見えてきた。のどかな場所で、牛に道をはばまれたりしながら進む。
徐々に山が近づいてきて、道はいつしか狭い谷となる。次の見学地点は川の対岸に滝の見えるポイント。川に突き出した見学用のテラスがボロボロになっている。ソビエト時代はツアーに組まれていた人気の場所だったので色々観光施設も整備されていた地域なのだ。ボロボロになったモニュメントの残骸もあり、さびしい気持ちが漂う場所だ。
すぐ近くに水汲み場があり、わざわざ汲みに来ている人がいた。名水のようだ。冷たくておいしかったので持っていたボトルの水は全部入れ替えた。この日のツアーをシェアすることになったのはボルゴグラードの北にあるサラトフから来たロシア人カップルで、少し英語ができたので助かった。
少し走って、今度は川が狭まって急流になっているポイントでストップ。川の高さまで道が続いていたが、中間の撮影ポイントまでしか下りず。景色の素晴らしいところだが、このような渓谷は日本にもある。急ぐ必要はないが、気持ちが死者の谷に向かっているので、ついついさっさと進んでしまうのだ。
少し走って今度は入場料が50ルーブルかかる場所。ここも渓谷が主な見どころだが、クマと豹を飼っており、そのためにお金がかかるのだった。彼らが住んでいた自然の中なのに狭い檻の中に閉じ込められた動物はかわいそうに見える。剣が刺さった岩があり、その由来を運ちゃんは一生懸命説明している。ここまでも見学の度に説明していたが、ロシア語なので我々は聞いていなかった。ここの由来はどうしても我々に伝えたいらしく、運ちゃんがサラトフの兄ちゃんに通訳を頼む。得意でない英語で兄ちゃんは四苦八苦。スマホの辞書で単語を引き引きの説明で申し訳ないほどだ。
谷に入ってから、初めての集落ドジブギス(Дзивгис)に到着する。2010年の統計では人口23人の小さな集落だが、100年前には400人を超える人が住んでいた村だ。遠くからまず目立つのが、崖に張り付いた要塞だ。チンギスハンの軍隊に対抗するために建てられたものだと説明された。しかし、帰国後確認したところでは、創設年は不明で、先史時代の住居から何度も拡張され今の姿になっているとのこと。
村には14世紀の石の教会が残っている。聖ジョージ教会だ。
教会の裏で羊をさばいている様子が見えた。教会よりも気になるのはこちら。予定に入っていなかったが、この様子を見に行くことにした。
お祝いがあるそうで、さばいた肉はすぐにキッチンに運ばれ、料理が始まった。そのままずっと見ていたいところだが、一応ツアーで他の人もいるので先に進む。
規模は小さいがこの集落にも「死者の町」と同じ様式の墓地がいくつか丘の上にある。これも見学コースに入っていなかったが、気持ちを抑えられず一人で見に行って他の3人を待たせてしまう。
一人で行ったので何かよく分からないが、墓室以外に碑文の掘られた石柱も建っていた。
ドジブギスの先は高原となり、ホテルが数軒ある町となった。ボルジカウだ。この規模ならウラジカフカスからのミニバスも普通にありそう。ここからダルガフスまでは約15キロ、時間があるならここに泊まってダルガフス日帰りがおもしろそうだ。
村を通り過ぎた先に新しい大きな石の教会がある。アラニア聖母マリア安息修道院だ。2002年に新しく建てられた教会だが、裏側には18世紀の石塔もある。
修道院でUターンし、ダルガフスとは逆側の斜面を車は上りだした。現れたのは14世紀に設立された要塞都市跡である。遺跡といってよいのだろうが、周辺部数戸は今も人が住んでおり、ジミティ村と呼ばれている。ふもとから見上げた石塔や石壁の街は本当に素晴らしい。昔ダルガフスだと思ってみていた写真の一部はこの場所だったような気もする。
ジミティの入口辺りから見下ろすボルジカウの町。この辺りから他の3人は戻ってしまった。
ここはメインの見どころなので他の3人には悪いが、早々に戻る気にはなれず、一人で先に進む。最上部にはダルガフスの死者の町と同様な建物がある。死者の町と同じなら墓地のはずだが、中は見えず、住んでいた場所かもしれない。他のツアーの人がいたので聞いてみたが、ロシア語しか通じず会話にならない。
絶景の山に囲まれた素晴らしい遺跡でのんびりしたいところだが、他の3人をあまり待たせる訳にもいかず、引き返す。
昼を過ぎていたので昼食はボルジカウでとるのだろうと思っていたら、車はボルジカウを通り過ぎて、ダルガフスへの峠道を上りだした。写真は途中にあったバシュニャ・クルタと呼ばれる石塔。
峠を越え、13時過ぎにダルガフスのある谷のファジカウ村に到着した。普通の民家のような家に入ると中では大勢で食事の準備を進めていた。ここはツアー客がよく立ち寄る食堂で、宿もやっているということだ。伝統的な鉄のオーブンで次々とオセチア名物のピログが焼かれていく。
ピログに入れるひき肉は塊の肉を包丁で切って、ミンサーにかけるという完全手動。混ぜ込むハーブは庭で栽培しているものだ。
ミルク缶と思ったら、中身は手作りのビール。美味しくて何杯もお代わりしてしまう。写真の後ろに見えるテーブルには飲みものなどが並べられており、当然そこで食事をするものだと思ったが、そこは他のツアーの予約席。我々のツアーはピログのテイクアウトに来たのであった。
観光客は毎日大勢来るようだが、当然ロシア人ばかりだそうで、日本人だと伝えると、皆さんすごく歓迎してくれた。最後には友達となり、たくさんの記念撮影をする。
食事をしたのはすぐ近くの河原で気持ち良い場所だった。
ピログは肉とチーズの2種類あって、どちらも非常においしい。見た目よりもボリュームがあり、食べごたえがある。ツアーが2人だけだったら1種類しか食べられなかったに違いない。
そしていよいよダルガフスの死者の町。遠目に見えた瞬間、ここだと分かった。しかし、近づくにつれて思っていたより小さいなという気分になり、本当にここだったのかと疑問が芽生えてしまった。30年間の思いの中で勝手にイメージが膨らんでしまっていたのか、先にジミティで似たものを見たので感動が薄れてしまったのか。でもやっぱり、来たかったのはこの場所! ここなのだ。
思っていたよりも、そして遠目に見て感じたのよりも、一つ一つの建物が大きく、違和感が大きい。歩いていると全く知らなかった場所のようにも思えてくるが、やっぱりここだ。そんなことを考えながら歩くのもまた一興だろう。
死者の町を構成する石の建物の中には人骨が散乱しており、ここが墓地であることは間違いない。ペストに罹った人が運び込まれここで死を待ったという話を始め、いくつかの逸話がここにはあるが、実際のところはよく分からない。ここにも見張りの石塔だけは墓としてでなく建っていた。
帰りは来た道ではなく、ダルガフスから川沿いに下る道を通ってウラジカフカスに向かう。この道が未舗装の悪路で、傾斜がものすごい。ここに来た人の記録を事前に調べた時に全員が我々と同じ方から来ていたので不思議に思っていたが、この道を登るのは嫌だなという道が続く。
最後にもう一か所と立ち寄ったのだが、車を降りてから結構歩かされた。写真は滝壺だが、実際の滝は人々が並んで飛び込みをしている裏側にある。いつもなら最後まで見に行く私もダルガフスで満足してしまい、ここでおしまい。サラトフから来たお姉さんと運ちゃんのみが、頑張って滝を見に行った。
17時台にホテルまで送ってもらいツアー終了。満足なツアーで有意義な一日となった。
夜は再びワールドカップ観戦である。試合の合間にスーパーに行って食料買出し、サッカーを見ながら部屋で夕食となる。