2人の世界旅 日々の記録

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イスラエル&パレスチナ>2009年04月04日(Sat)
エルサレム→ベツレヘム→ヘブロン→ベツレヘム→エルサレム
:: 旅695日め : 世界旅105ヶ国め : 和人218ヶ国め : あづさ124ヶ国め ::

■パレスチナの地へ
さて今日は、パレスチナの地へ。

あづさは昨日のエルサレム観光の続きとして、ベツレヘムBethlehemへ行きイエスの「聖誕教会」を見に行こうかと思っていましたが、作戦変更(ベツレヘムは、ルカ伝(福音書(新約聖書にもとづくイエスの言動録)の1つ)において聖母マリアがイエスを出産したところです(※別の福音書ではナザレNazarethが生誕地とされています))。

聖なるベツレヘムを蹴ってまで選んだのは、西岸の町、へブロンHebron。
だって、パレスチナ問題、パレスチナ人に触れられる場所なんだもの。

西岸(ウェストバンクWest Bank)とは。
イスラエル東部にある一区域のこと。ヨルダンで会った旅行者が「へー、東部なのに西岸なのね~」と、池袋チックなことを言ってましたが(池袋は東口に西武デパート、西口に東武デパートがあるのです)、ちがいますよ、ヨルダン川西岸という意味でごく普通に名前がつけられています。

昨日の日記に、「イスラエルにはパレスチナ自治区が含まれる」と書きました。パレスチナ自治区はエジプトに接するガザGaza地区とヨルダンに接する西岸地区の2者を指します。

また、昨日の日記に、「AD70年にローマ軍に破壊され、この壁(嘆きの壁)が残骸として残りました」と、嘆きの壁について書きました。ユダヤ人の聖地の破壊は、ローマ帝国支配に反発したユダヤ人の敗戦を意味します。その惨敗ゆえユダヤ人はイスラエルから追放されて世界へ大規模に流出、そうしてエルサレムJerusalemは7世紀ごろからアラブの支配下に入ります。ユダヤ人の聖なる神殿の上にイスラムモスクが建てられたり、大半の住人がアラブ人となっていきます。

【長いからここで歴史千年以上を割愛】 やがてシオニズム思想(ユダヤ人のイスラエル帰還およびユダヤ国家を建設しようとするもの)は高まり、1947年、遂に、アラブ人が多く住むパレスチナにユダヤ国家の建国が認められます! びっくりマークをつけるほど、これは歴史的驚愕に値することなのですよ。国際社会がユダヤ人国家建国を認めたのですから。しかしその国連のパレスチナ分割案に対する両者の主張は一致せず、1948年イスラエル独立宣言の直後より、その領土領有権争いは中東戦争を4度も引き起こしました。

【まだ長いけど頑張って読んでっ】 4度の中東戦争のなかば、パレスチナ人の独立を目的にパレスチナ解放機構(PLO)が結成、しかし軍事力の強いイスラエルはパレスチナを占領、世界各地にパレスチナ難民流出、1988年アラファト議長は(西岸とガザはイスラエルが占領中にも関わらず)西岸とガザを領土とするパレスチナ独立宣言。そんな領土なき国でもその存在は認められ、現在、世界の半数の国がパレスチナと国交を結んでいます。西岸においては、イスラエル側は、エリコJerichoやヘブロン 【ヘブロンの名前キター!】 などから順に領土をパレスチナ人に譲渡することになっており、いまだ領有権問題は複雑で、戦闘もたびたび起こっています。

あー長かった、ごめん! でもここでやっとへブロンの名前が出てきました。上記の通り、いったんはイスラエルに占領されたパレスチナでも、へブロンは比較的早い時期からパレスチナ暫定自治政府(1996年にPLOを前身に発足)の管理が認められたこともあり、「パレスチナらしいパレスチナ、アラブ人のパレスチナ」が見えそうな場所なわけです。

■ヘブロン到着
イスラエルには、「ユダヤ人バス」と「アラブ人バス」があり、別々の路線を結んでいます。へブロンへは、エルサレムからアラブ人バスに乗り、ベツレヘムで乗り換えて行きます。到着早々アラブ人の活気あるバザール(市場)が目に飛び込んできました。売られている食べ物も、ホブスにファラフェルといった、他の中東諸国と共通するもの。クウェート以来大好きになった、薔薇の香りの米粉プディング「ムハラビーヤ」の屋台売りが、今まで食べた中で一番美味しかった。閉まっている商店が散見されますけど、東エルサレム(旧市街アラブ人地区)よりも、ヘブロンのアラブ人たちのほうが、結束も強そうな印象を受けました。

ここにはアブラハム(イブラヒム)のお墓があります。それ誰?って思ったら、昨日の日記、ちょっと読んでもらえたらと思います。そう、彼は人類の始祖ですから、へブロンにいるユダヤ人(ユダヤ教徒)にもアラブ人(イスラム教徒)にも、信仰対象にあたるのです。そのお墓は、ユダヤ人にとってはシナゴーグ、イスラム教徒にとってはモスクというわけですね。

しかし、その出入り口も、礼拝の場所は隔離されていました。写真左下で、頭を布で隠す人々(ムスリム)がいるところがアラブ人側出入り口、写真中央下に階段が見えるところが、ユダヤ人の出入り口。もちろん内部も完全隔離されています。

ヘブロンのマクペラの洞窟

中はマクペラの洞窟と呼ばれる聖なる地。私たちはパレスチナ側兵士の検問を受け、アラブ人側から入り内部を観光しました。

モスクを出て少し歩くと、今度はイスラエル側兵士の見張りが目に入ります。少しだけ、イスラエル人(ユダヤ人)入植地を歩くことができました。今日土曜日で、閑散としているばかりの寂しいところです。アラブ人地域のような活気はありませんでした。
(※ユダヤ人の安息日(週末のようなもの)は金曜日没から土曜日没までです)

今日一番印象的(衝撃的)だったのは、アラブ人地区で、通路の上に張られている金網です。金網の上にはゴミがたまっています。この地域、1階はアラブ人が住み、上層階にはユダヤ人が住んでいて(←この事実がスゴイと思う)、ユダヤ人が、アラブ人への嫌がらせに上からゴミや汚いものを落とすそうです。この金網の最も重要な意味は、しばしば両者の間で起こる争いの際、アラブがユダヤからの攻撃を防ぐ、ディフェンスラインなのでしょう。

普通、モスクが観光名所の町に訪れたら、モスク観光が一番の思い出になるはずが、ここへブロンでは違いました。アラブ人とユダヤ人、ひょっとしたら永遠に解決しないかもしれないパレスチナ問題を、真剣に体感できる場所・・・。

イスラエル&パレスチナの旅に、パレスチナ問題への直面視は必須項目だと考えます。だから、今日へブロンへ行けたことは、本当に良かった。これがなくイスラエル&パレスチナの旅を終わっていたらと後から思うと、ホント、こわいくらいです。

パレスチナ問題の平和裏な解決の日がくることを、望みます。
そのとき、ヘブロンは、エルサレムは、どんな町になっているのでしょう。
近いか遠いか分からない未来の姿は、今は到底想像できません。
本日の旅
行動 :へブロン日帰り観光
朝食 :ピタ(中が空洞のパン)、コーヒー/宿
昼食 :ホブズ(ピタと同じ)、ファワール(サフランライスの腸詰めに肉のゆで汁をかけたもの)/ヘブロンの屋台
夕食 :謎の巨鳥のガーリックステーキ、ねぎとイタリアンパセリのソテー、ピタ、ホンモス(ヒヨコマメのペーストにタヒーニ(ゴマペースト)やレモンを混ぜたもの)、イスラエリワイン白/宿
宿泊 :アルアラブホステルAL-ARAB HOSTEL

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旅情報
1シェケル=24.8円

*へブロンへの行き方
エルサレム旧市街ダマスカス門近くのアラブバス乗り場から21番バスに乗りベツレヘムへ。1人8シェケル、1時間弱。そこから別のバスに乗り換えて(私たちは最初のバス運転手にへブロン行きを伝えてあったので、乗り換えに便利なところで降ろしてもらっている)、へブロンまで7シェケル、1時間弱。