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■母のこと
今日は、あづさの母が主人公の日です。
なのでまず、その母のことから(恥ずかしながらですけど)書こうと思います。
関東地方の片田舎の、海の見える町、海の見える家で生まれ育った母は、第二次世界大戦後の第一次ベビーブーム世代に属します。その世代が青春世代となる時期は、音楽界におけるビートルズ全盛期とも一致し、若者は学校の授業以外でも、その歌詞に親しむことがきっかけで、英語に関心と向学心を寄せる者も多かったそうです。
ビートルズの歌が好きだったという母は、そういう高校生の一だったのでしょう。そして何のきっかけがあったかは知りませんが、高校生の当時、南アフリカのプレトリアPretoria(現ツワネTshwane)に住む女性と英語で文通をしていたと、そこまではあづさが小さい頃から聞いていたエピソードでした。
「南アフリカの、プレトリア」・・・アパルトヘイト(人種隔離政策)が始まったのが日本の戦後の時期ですから、母がその友人と文通をしていた頃は、アパルトヘイトの施行と国際的非難で混乱している時期かもしれません。また英連邦から脱退して南アフリカ共和国となった直後でもあり、南ア内は不安定のさなかだったことでしょう。
でも、中学でそんな歴史を学ぼうとも、あづさにとっては、南アフリカ共和国といえば、小さい頃から「おかあさんのおともだちがいるくに」だったのです。
■ナミビアからの手紙
「おかあさんのおともだちがいるくに」、南アフリカに渡る直前のナミビアにて。
ウィントフックWindhoekの日記に書いたこの件(くだり)、
「南アフリカの、今生きているかどうかも分からない、どこにいるかも分からない人に、1通の絵葉書も出しました。」
(≫
5月28日の日記)
それは、私が一か八かで、母の友人カトリーヌへ出した手紙。住所は母に教えてもらっていた40年前のもの。思いつくままの英語でしたが、「40年前のカトリーヌの文通友達ヨシコの娘です。旅をしていてもうじき南アに行きます。カトリーヌか、彼女を知る人と連絡を取りたいです。」と書いた絵葉書。古い住所は、家の所在地ではなく郵便局の私書箱。その5ケタの私書箱番号は40年も経つと存在しないのでしょうけれど・・・。
母には南アは遠い国だったと思うのです。40年前は海外旅行なんて気軽に出来る時代ではないですし、テレビがあっても入ってくる外国の情報は少なかった筈。だから南アは、私たちが想像つかないくらい遠い遠い外国だったんだろうなと思うのです。
きっと、そんな時代の女子高生が英語でお手紙を書くなんて、すごいこと。遥か遠い海の向こうの国から届くカトリーヌの文筆からどれほどの感動と発見をもらっていたことでしょう。
だからあづさは、そんな南アのプレトリアに寄って、写真を撮ったりして、「プレトリアはこんなところだよ、お母さんのお友達はこういうところにいたんだね」って、母に写真つきのメールを出してあげたいなって思ったのです。あづさとしては観光する用事もないけれど、その母の遠い想いを繋ぐことが、あづさの一番の用事だったのです。
・・・そして、可能ならば、カトリーヌに会いたい。母と友達になってくれてありがとう、あなたのかつての友人の娘はこんなに大きくなって元気ですよ、母も元気ですよと、伝えたい・・・。
そんな様々な気持ちと共に絵葉書を投函したとき、何故かしら、心からぐっと熱くなる気持ちが沸いてきて、ちょっと涙目になってしまった、それが、ナミビアのウィントフックでの出来事でした。
■プレトリアを歩く
いつも、私たちは、基本的には2人一緒にいます。でも今日は、昼食を食べたあと、「じゃあ行ってくるね」とあづさは和人に言いました。何故そう思ったかは分からないのですが、そのときはとてもそう言いたかった。
ナミビアから出した絵葉書には、私たちのeメールアドレスも記載していました。絵葉書が古い住所に届かないなら届かないなりに、「彼女はもういない」「その私書箱番号はもう存在しない」と、そんな情報でも良いから、誰がしからでも連絡がもらえないかと薄く期待をしていたのです。でも、今日に至るまで、何の連絡も来ませんでした。
あづさはプレトリア地図を手にして、1人でお昼過ぎに歩き始めました。緊張は、少しだけしていました。
「この道を行ったら近そうかしら・・・?」 歩くコースを地図を見ながら考えていると、一人の男性が「Can I help you?」(どうしたの?)と声をかけてくれました。そして私に道を教えてくれ、更に、大輪の、素晴らしく大きな真っ赤な薔薇の花(直径15cmもある大きな薔薇!)を一輪プレゼントしてくれました。
ちょうど、真っ赤な服を着ていたあづさ。40年前と今とを繋ぐためにリンウッド地区を歩く決意がちょっと大きすぎて緊張していたあづさには、その優しさがぐっとくるほど有難く、美しい赤い薔薇はまるでお守りに思えました。
歩いて歩いて、リンウッド地区に入りました。家並みは、まさに高級住宅街そのものでした。大きなお屋敷は、古い邸宅も新しいモダンな家もあり、どれも広いガーデンに犬が放し飼いにされています。塀という塀に電気フェンスが取り付けられ、セキュリティもすごいものです。
母の友人のカトリーヌは、名字をホフマイヤーといいます。農場経営の家庭だそうです。私が歩くヒントはそれだけ。
上り坂の頂点を越え、空きビン回収をしているらしき黒人男性が1人、あづさに声をかけました。「Are you lost?」(道に迷ったのかい?)と。「地元の人なら、ホフマイヤーさんを知ってるかな?」と思ったあづさは、母の友人に会いたいがリンウッド地区以外は住所が分からないことを伝えました。その男性の回答は期待に沿わないものでしたが、この先にある大きな私有地の場所を地図上で指差し、「Security knows everything」(その警備員なら何でも知っているよ)と、頼もしく教えてくれました。
少しでも多くの家の表札を見たいと、遠回りをして歩き、やがてその私有地の入り口にたどり着きました。そこの警備員は、あづさの事情を聞くと、リンウッド地区の住民名簿を見てくれ、優しく「No longer」(もういないよ)と、教えてくれました。更に、通常は絶対によそ者には見せないというその住民名簿を見せてもらえました。「A、B、C、D、E、F、G、・・・」名字別の見出しの「H」の欄にも(ついでにFの欄にも)ホフマイヤーHofmeyerの名前はありません。決定的に母の友人を訪ねる手掛かりが途切れてしまったのです。
悲しかった。ほんの少しでも、カトリーヌやせめてその家族が今でもここにいてくれる可能性を期待していたから。
絶望的な状況が納得できてしまうから、悲しくて寂しくて仕方ありませんでした。そのまま警備員とお別れしたあとは、清楚な街を歩きながら泣くのを我慢して、でも泣いてしまい、せめて泣き続けるのはやめようと、精一杯に我慢していました。
それでも丘や公園、教会や学校、大通りも静かな通りも、歩きました。母に見てもらおうと写真も撮りました。一軒一軒、あれば表札を見ながら歩いているとき、途中声をかけてくれた豪邸ガードマンに「ここにホフマイヤーさんの農場がありますか?」と尋ねたのですが、回答は「リンウッド地区には1つも農場はない」というものでした。農場に行けば、農場主つながりで、ホフマイヤーさんのことを知るヒントは尋ねられるかもと思っていたけれど、もうこれでカトリーヌに会う手掛かりは、本当になくなってしまいました。
あ、陽が落ちてきた。
美しい夕暮れだ。
そう思ってからは、リンウッド地区の最後の散策を兼ねながらも、足は、ハットフィールド地区の宿に向かっていました。
今日歩いた距離は、半日で12km。
結構すごいでしょ? 歩きっぱなしでしたもの。
出発のときにもらった大輪の赤い薔薇の花は、少しずつしおれ、花びらが1枚ずつ落ち、宿に戻ったときは、茎と蕊(しべ)に花びらが数枚残っているだけでした。12kmの道、私が、母の想いを現代に繋ぎたくて歩いた道には、薔薇の花びらが点々と落ちている、それが今日の私の足跡。
ああ、カトリーヌに会いたかったな
母の娘(つまり私)の元気な姿を見てもらって
母も元気ですよと伝えたかったなぁ・・・
神奈川で育ったあづさは、大学3年のときから下宿を初め、それきり父母とは一緒には暮らしていません。ときに電話し、今ではパソコンに慣れてきた父母とメールの交換もしますが、一緒に暮らしていない時間が長くなるほど、私の元気な姿はなかなか見せられません。
幸い母は、今も父と(ついでに犬とも)元気で暮らしています。
あづさが学会発表でアメリカに行くとき、母の病気の大手術と重なったときも、私を海外に追い出してくれた母。もともとが治らない病気と言われるものである上5年生存率1%未満と医師に診断されても、あれから15年近く生き、病気も完治したのでしょうから、ものすごいこと。“生きていてくれることの感謝”は忘れてはいけません(が、元気にしているとこの点の感謝はつい忘れがちになってしまうものなのです・・・)。
少々短気な性格もあり、小さい頃はよく叱られたっけ。
でも、和裁や洋裁が得意で、小さい頃からよく自作の服を着せてくれたっけ。
母の料理は子供として食べると別段美味しいとか感謝することが少ないのですが、いざ自分が家庭を持って台所に立つと、いつも品数が多く手を抜かない美味しい手料理だったのだと、気づくのです。
あづさは、物心がついたときから、「お父さんのような人と結婚したい」なんて言っていました。少し自分と似ているところがある母を、これまでずっと支えて守ってきた父だから、そう思ったのかしら。
初めて和人を神奈川の実家に案内したとき、母は和人のことを「お父さんと、同じ空気をとても感じる人」なんて言っていました。2人で世界を旅して、アフリカの危険な国も含めてまわりたいということを伝えたときも母はずっと反対していました。
でも最後は「あづさの夢を尊重するしか親にはできないから」とまで言ってくれた母なのです。
お母さん
今日は「おかあさんのおともだちがいるくに」を歩きました
あなたの娘は、一生信頼しあえる人と2人でいて
お父さんに似ている人に守ってもらえて
今も、幸せですよ
本日の旅
行動 :プレトリア散策、母の昔の友人を探して
朝食 :昨日のシチュー、トースト、チップス(フライドポテト)、コーヒー/宿
昼食 :ペンネのレモンバターソテーバジルがけ、チップス、Kuduのウォース(シカのようなゲームミートのドライソーセージ)、ワイン、コーヒー/宿
夕食 :パップ(とうもろこし粉を炊いたもの)、トマトカレー風味シチュー、コーヒー/宿
宿泊 :ブルーチリバックパッカーズロッジBlue Chilli Backpackers Lodge
旅情報
1ランド=14円
*ツワネ(プレトリア)市内
列車で到着するのはプレトリア駅で、そこから観光の中心チャーチスクエアまではまっすぐ北に約1km。安く泊まれるバックパッカー宿は市内各地にあるようだが、中心から東に数km離れたハットフィールド地区に複数集まっている(私たちもそこに泊まった)。ハットフィールド地区はメトロ列車も通る。