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■ポトシの鉱山を観光しました
中世ヨーロッパは暗黒の時代だった。
一般に、ヨーロッパ史において中世とは、西ローマ帝国の滅亡(5世紀)から15世紀あたりまでを指す。それ以前は古代ギリシャ・ローマであり、後ろはルネッサンス(文芸復興)である。古代を受け継ぎつつもルネッサンスを培う土壌を生み出すまでの時間は、実に、飢饉、疫病、戦乱、迫害といった混乱の絶えない、そして誇れる文明もない、世界で最も貧しい時期であった。今でこそ先進国群を擁するヨーロッパとしての視点から見ると、意外に思われるかもしれないが。
7世紀にイスラム教がアラビア半島で生まれ、急速に拡大してイスラム帝国を築き、あっという間に中世ヨーロッパを凌駕した。この旅で私たちが目にしたエルサレム(≫
こちら)をムスリム(イスラム教徒)が征服したのも、その7世紀である。インドから0の概念を持ち込むことで数学が発達し(ローマ数字からも分かるように当時のヨーロッパには0の概念がなかった)、中国から紙を導入し、文化、文芸、学問、政治、軍事、経済等、絢爛たるサラセン文化と呼ばれるそれはあらゆる面で秀でていたのだ。一方の中世ヨーロッパはというと教会が社会や学問の世界までも支配し、人々は正しいことも言えず、古代ギリシャやローマの学問知識は弾圧され、キリスト教のみがすべてを支配する時代、暗黒時代だった。
イスラム帝国は8世紀にはイベリア半島(スペイン)に席巻して西ゴート王国を征服した。生き残った西ゴートの王族たち -のちにレコンキスタを起こすことになるキリスト教徒たち- はイベリア半島北部に逃げ込んだ。
イスラムの交易路は、海路にてアフリカ沿岸、アラビア半島、インド、東南アジア、陸路では地中海沿岸から中央アジアへと及んでいた。当時まだ発見されていないことになっている新大陸(南北アメリカ大陸)を除けば、これは世界制覇といえるだろうし、キリスト教ヨーロッパ世界から見れば、ヨーロッパはイスラムに完全に包囲されていたということになる。歴史上、1つの宗教社会がこれほど短期間で世界を席巻したことは、この時を除くと一度もない。イスラムは地球文明の頂点に立っていたのだ。
この旅で私たちが目にしてきたウルムチ(≫
こちら)、グレートジンバブエ遺跡(≫
こちら)、キルワキシワニ遺跡(≫
こちら)、ザンジバル(≫
こちら)、それからもちろん中東諸国の地なども、その世界頂点に立ったイスラムの商業交易地の繁栄の跡である。
絶え間ない混乱の中からも西ヨーロッパには大開墾時代が訪れる。封建社会(土地を介した領主と領民の安全保障を基盤とする地方分権的な社会制度)が安定し、農業生産も増大した。そういった社会の仕組みがきちんとしてきてようやく体外的な反撃に出られるようになったのが12世紀であり、その象徴がかの十字軍である。十字軍とは聖地エルサレムの奪還のための遠征軍のことで、きっかけは聖地エルサレムを支配したイスラム王朝に脅かされたビザンツ皇帝がローマ教皇に救援を訴えたことに端を発する。しかし、数度に亘る十字軍も初回を除き結果は失敗。得たものは聖地ではなく、イスラムの凄さ、先進文化を学ぶという皮肉な結果になった。
十字軍の遠征の影響により、東方の文物が西洋に流入した。貨幣経済の浸透、ペストの大流行(三千万人近くの人々が死んだそうだ)、凶作、飢饉、戦乱、農民一揆などにより封建社会も衰退を見せ、法王や教会の権威は崩れ、中世が緩やかに崩壊していく。国々は近代的中央集権国家へと変貌し、イギリスやフランスなど、国王を中心とした新しい国家が力をつけていった。いわゆるレコンキスタ(国土回復運動 -言い換えれば「再征服」- 、イベリア半島をイスラムから奪回すること)を進めたのもスペインやポルトガルといった王国であった。
一方イタリアでは、ベネチア(≫
こちら)やジェノバなどの海港都市は早くから商業拠点として地中海で栄えていたが、大開墾時代の生産物増大による物流増加や、十字軍による交通発達により東方貿易が増強したことで、内陸のミラノ(≫
こちら)やフィレンツェ等をも含め、都市国家は一層の繁栄を極めていった。この東方貿易では、南アジアをはじめとする東方からの香辛料(胡椒など)、絹織物や宝石などの贅沢品を輸入していた。都市同盟軍は教皇軍の圧迫にも対抗するなど、自治都市としての強大な力をつけていた。なお、今でこそ香辛料は万国共通の調味料だが、当時は原産国である今のインドネシアあたりでしか採れない貴重なものだったことを忘れてはならない。
香辛料は金と同じ重さで取り引きされたと言われる。何故、香辛料なのか? これについてはあまり語られないのだが、実は中世ヨーロッパの食事情は想像以上に貧しかった。冷蔵方法がなく、腐った肉のにおいや味を誤摩化して食べるのにも、そもそも保存性を高めるためにも香辛料が欲しかった。しかし、アジアでしか採れなかった香辛料はイスラム商人を通してしか買えなかった。
ヨーロッパ諸国が海軍に執着したのにはここに理由があった。香辛料交易ルートをイスラムに押さえられていたがゆえ、「中東を経由しないインド航路」を開拓する必要があった。「豊かなアジア」というイメージを見せたマルコ=ポーロの「東方見聞録」もアジアへの欲求を増強させていた。なお当時のインドとは今のインドではなく、香辛料が採れる魔法の地域を漠然と夢見ていた西洋人の言葉である。
こうして、ヨーロッパ人たちは、海の果てへと乗り出して行くことになる。地中海交易はイタリア都市国家に占有されていたので、別のルートでインドに到達するしかない。・・・これが大航海時代の始まりである。
ポルトガルがいち早く王国の確立を果たすと、ポルトガルは地理上、その先が海だったので、国家をあげて航海技術に力を注いだ。その結果、やがてはヴァスコ=ダ=ガマがインド航路(アフリカ周回航路)を発見、イスラム史上最大の帝国であるオスマントルコを飛び越してアジアに到達し、宝の山(香辛料)をごっそり持ち帰ることになる。
1492年はスペインにとって記念すべき年となった。
陸では最後のイスラム王国グラナダを駆逐し、レコンキスタが完了した(イベリア半島がすべてキリスト教支配下に入った)。海ではコロンブスが大西洋から西インド諸島(現在のカリブ海)に到達した。地球は丸いというのがまだ定説ではない(新説だった)頃、西から新大陸に到達するとは驚きだ。それは結果的にアメリカの発見ということになる。そして条約によりヨーロッパを除く全世界で両国の領土の「線引き」がなされ、アジアはポルトガル、アメリカはスペインが支配できることに決まった。この分解線はとても興味深いので(何故ブラジルのみポルトガル、フィリピンのみスペインと例外となったかなども含めて)、「トルデシリャス条約」、「サラゴサ条約」などを参照されたい。
アメリカ大陸で優先権を得たスペインは新大陸の植民地経営に乗り出した。コルテスはアステカ帝国(メキシコ)を滅ぼし、ピサロはインカ帝国(ペルー)を滅ぼした。更にボリビアでポトシ銀山が発見された(1545年)。当時無尽蔵の銀山であったこの山はセロ・リコ(Cerro Rico、山積みの富)と名づけられ、文字通り大量の銀が産出した。しかしコンキスタドール(スペイン征服者)はインディオ(原住人)に対し過酷な労働を強いるのみ。更に銀の精製に使う水銀の毒性、スペイン人が本国から持ち込んだ天然痘などにより、300年で20億ドル相当の銀を掘り出す代償に、800万人がこの山で命を落とした。とはいえ労働者は皆奴隷だ。だから分かりやすく言えば、ぼろもうけだった。
17世紀のポトシは人口20万人。ローマやパリなんかよりも遥かに人口の多い世界最大の都市のひとつになっていた。標高4700mという想像を超えた高地、平らなところのないアンデス山岳地帯にこれだけの大都市が作られるなど尋常ではない。ここから出る無限の銀が、いかに世界を動かし、スペインをポトシに執着させていたかが伺える。
スペインは、対外的な物品の支払い、借入れ先の国々への返済にその銀を使う、つまり大量の銀を全世界にばらまいてしまった。禁じ手をやってしまったのだ。世界的な価格革命(インフレ)が起こり、世界は深刻な金融打撃を受けた。何故打撃か? 実際は簡単には語れないだろうが、貨幣が増えると物価は上がる(貨幣価値が3分の1になったら物価は3倍になるということ)。更に銀貨の流通により貨幣による世界の一体化が強引に作り出された。それまでイスラム世界の商人たちが貨幣経済を極力避けてきた土台があったにも関わらず、である。
一見スペインは、ポトシの銀により世界最強の帝国だった。無敵艦隊だった。しかし実際は病んでいた。先述のイタリア諸都市や強敵オスマントルコも圧倒していたのだが、ポルトガル同様国内の底力が不足していた。スペイン本土には産業が発達せず、ポルトガルやオスマントルコとの度重なる戦争によって財政は悪化し、ユダヤ人追放令を出したがために商業資本を失い(ユダヤ人は経済活動の中心だったため)、森林資源が不足し(軍艦を作るのも船の燃料も木材だった)、新大陸からスペインに還流した富は投資されずに浪費されるだけ、財政難を解決できるほどの銀もない(もしくは上記理由で有効に銀がまわらない)。実は16世紀のスペインは複数回の破産宣告をもしている。
スペインは世界帝国でありつつ常に戦っていた。大国化しながら破滅していた。
-インチキな銀に頼って、病んでいたのだ-
近代化を迎えるヨーロッパは宗教改革という新たな火種を抱え、保守側のスペインはプロテスタントが浸透したスペイン領オランダに対し過酷な徴税と新教と弾圧、その結果オランダの独立戦争が泥沼化。スペイン無敵艦隊はイスラム最大帝国であるオスマントルコを破り中世以来の地中海イスラムの呪縛を紐解くも、急成長した英国に敗れ、制海権を失う。
世界はあっけなくオランダ・英国の時代へ移行し、スペインは表舞台から消えた。
たった100年の、短い繁栄だった。
1492 イスラムをイベリア半島から駆逐しスペイン国土完全回復。
1492 コロンブス西インド諸島(現在のカリブ海)発見。
1519 アステカ帝国(メキシコ)征服開始。
1531 インカ帝国(ペルー)征服開始。
1545 ボリビアでポトシ銀山発見。黄金時代到来。
1571 レバントの戦い。オスマントルコに大勝、中世以来のイスラムによる地中海制海権を奪回。
1581 オランダがスペインから独立。
1588 スペイン無敵艦隊英国に敗れる。オランダ・英国時代の始まり。
* * *
今日は、そんな、スペインの激動の歴史を重く見てきました。ポトシPotosiで、銀山を観光したのです。
ああ、何て大きな山なんでしょう・・・、こじんまりとした山なのに、世界を変えた山は大きく聳え立つ・・・。
もう一度書きましょう。「17世紀のポトシは人口20万人。ローマやパリなんかよりも遥かに人口の多い世界最大の都市のひとつになっていた。標高4700mという想像を超えた高地、平らなところのないアンデス山岳地帯にこれだけの大都市が作られるなど尋常ではない。ここから出る無限の銀が、いかに世界を動かし、スペインをポトシに執着させていたかが伺える。」
旅してポトシに来たならば、このことを実感しなければなりません。今は一見普通の町ですけれど・・・。
現在ポトシは、錫とアンチモンが主要産品だそうです。もちろん、銀も少々は出るようですが、少なくともかつての無尽蔵さ、かつての繁栄の面影を、今は感じることはできません。
それでも鉱夫たちは今も働いています。厳しい環境の中、コカの葉(コカインの抽出効率と生体への吸収性をも高めるためにアルカリ性の石灰を一緒に噛む)を噛みながら、時に落石も低酸素状態もある危険な洞穴で働いています。観光客はポトシ市内の旅行会社のツアーという形で、実際にヘッドライトとつなぎを着用して、現在も稼動している鉱山の内部に入ることができます。私たちのツアーガイドは、もと鉱夫でした。上手で分かりやすいスペイン語で、苦しいこともやりがいも語ってくれます。鉱山内部は3次元の立体迷路で、ハシゴを昇り降りしながら進み、鉱石運び出しのトロッコ線路を見たり、中で祀られている神を見たりします。歩いているときにたびたび小さな落石があり、ヘルメットに石が当たります。これが大きな落石だったらと思うと、怖いです。
思い出にと、1つ、黄錫鉱の結晶(黄錫鉱は錫の硫化物だが結晶化することは珍しい)を拾ってきました。鉱物成分が七色に輝くかつての銀山「セロ・リコ」は、ポトシの一番の観光スポットではありますが、ここは歴史を知らない人が見たら、「鉱山内部の体験が珍しくて楽しい」といった表面的な楽しさで終わってしまうところでしょう。
でも、スペイン無敵艦隊時代を中心に、その前後の歴史を知っているならば?
その歴史の重さから、決して忘れることのできない、他では体験のしようのない、すごい観光ができるところには間違いない。この山がかつて、世界を激しく揺さぶった。こんなすごいところを観光できるなんて、そう滅多にあるものではありません。そう実感するほど本当に本当に、面白くて面白くてたまりません。観光用の道もない、落石もしょっちゅうの稼動中鉱山の内部なんて、ボリビアのここでなければ見られません。だから面白いというのもあります。でも、脳は知識と体験が増えて喜びますが、心のほうはというと、先住民の人々の苦しい歴史と重ねることで、ぎゅっと痛くなることもしょっちゅうでした。
* * *
実はですね、高校2年生のとき近代ヨーロッパあたりまでは学んだものの、でも大学受験は地理を選択してしまいました。世界史があまり面白くなかったから。
当時は学校の教室と自宅の勉強机。今は実際に各国を巡って歴史の跡を見聞している。学び方が違うし、生きた世界史を見られるのだから、当然世界史への見方が違って当然なんだけど・・・、こうして世界旅をする機会にめぐりあえたのだから、この経験をもとに、一生ずっと、もっと生きた世界史を勉強していきたいなと、今つくづく思っています。
できれば世界史をくまなく学んでから世界旅に出るほうがいい。知らずに旅することが如何にもったいないかが分かる。歴史を知っていればその土地を正しく見つめられるようになる。建物1つ見ても、その建築様式から、世界史上いつどこの帝国がここを支配していたか、この建築パーツは何を意味しているか、なんてことが分かるからです。これは日本での観光も同じですよね。
でも世界旅に出てしまったあとだから、事前勉強はもう無理です。
後悔先に立たずという言葉がぴったりはまってしまって悔しいです。
私は、自分に足りない世界史知識を、旅して実際に自分の目で見たあとで追加していくしかない。でもそれは実はすごく楽しい。これも1つの温故知新。だからこれからも、ただ「きれいねー」とか「美味しいー」とか「楽しいー」とかで終わらない、「いい旅 -自分の財産が増える旅- 」をしていきたいです。
今日書いた、ポトシ銀山とスペインに関する歴史は、概要を世界史教師の友人に教えてもらいました。「ポトシとスペインの世界征服について教えて」って頼んだのに、今日の日記の範囲と同じく、中世ヨーロッパの全体像を土台にして教えてくれ、あづさはそのストーリー展開にあまりに感動したので、その概要を把握した上で自分でも勉強を重ねました。感動の記念にと友人の文筆を敢えて残している部分もありますが、今日の日記のほとんどは自分で書いています。
久米谷先生!(って同い年ですけど、ちなみに仮称)、本当にありがとう!
本日の旅
行動 :ポトシ到着、ポトシ銀山観光
朝食 :Milanesa de pollo(ミラネサデポジョ、卵の衣の鶏の紙カツ)、Chuleta(チュレタ、牛肉の蒸し焼き)、arroz(アロース、ごはん)、ensalada(エンサラダ、レタス玉ねぎトマトのサラダ)、sopa(ソパ、ゆで汁)、papa(パパ、ゆでじゃが)/ポトシの食堂
昼食 :ピカセデカルド(豚バラ肉豚骨付き肉ペラード(とうもろこし粒)チュニョ(脱水じゃがいも)辛トマトのスープ)/ポトシの食堂
夕食 :Milanesa de pollo、チュニョ、パパ、マカロン(マカロニ)、picana(ピカーナ、牛肉塊カレースープ)、チョクロ、mate de anis(マテデアニス、アニス風味の薄い紅茶のようなジュース)/ポトシの食堂
宿泊 :アロハミエントサンロレンソALOJAMIENTO SAN LORENZO
旅情報
1ボリビアーノ=13.5円
*ポトシの鉱山ツアー
市内中心部には旅行会社が幾つもあり、どこも必ず「マインツアー(鉱山ツアー)」を出している。料金は様々で、更に交渉によって値引きが可能なのでいろいろとあたってみると良い。私たちが聞いたときは70~80ボリ前後が多かったが、比較的短時間の交渉で55ボリに下がった。50ボリくらいまでは頑張れそう。8人参加のワゴン車でツアーで、鉱夫へのお土産(鉱山内ですれ違ったときなどに手渡すための、お酒、コカ葉、ジュースなど)を途中立ち寄るショップで別途購入する。私たちは2人で10ボリ分のコカ葉を買った。ツアーは2時半発、6時半戻りだった。