大韓航空機爆発事故&バハレーン紀行
古い話ですが、大韓航空機撃墜事件を覚えているでしょうか。この大韓航空機爆発事故は、その半年後に起きた事故です。あのキム・ヒョンヒさんの大韓航空機爆破事件ではありません。爆発です。念の為。
ヨーロッパから日本に帰るため、私は大韓航空にチューリッヒから搭乗した。ガラガラに空いたジャンボジェットの右翼近くの窓側に、私は席を取っていた。中東はペルシャ湾に浮かぶ島国バハレーンにて給油を済ませ飛び立つ時である。滑走路で加速途中、大きな音がし、機内は一瞬真っ赤に染まった。飛行機に乗った体験があまり無かったので、こういう事がよくあるのかなくらいに思っていた。しかし、しばらくして左側を見るとエンジンから火が出ていることが分かった。それで、先ほどの赤がエンジン爆発の光であったことを知る。間に乗客がほとんどいないとはいえ、ジャンボ機の右端から左の景色は良く見えない。どの程度のトラブルかは判断できなかった。(見えても判断なんてできないが…)機内は騒ついているが、全く気づいていない人もいる様子だ。
いつまでもシートベルト着用のサインは消えない。しばらくして、機内アナウンスが入った。韓国語、英語、それまでは引き続いて日本語のアナウンスが入っていたので、英語のは全く聞いていなかった。しかし、日本語のアナウンスは入らない。どういう案内をしたのか分からずじまいだ。火を吹いているのだから、エンジントラブルを伝えたのには違いあるまい。これ以降何度かアナウンスが入ったが、日本語は無し。日本語のできるスチュワーデスが韓国人で、マニュアルのない事態発生で、訳せなかったのであろう。
アナウンスの後はいっせいに機内が騒めいていた。私は何故か恐怖を全然感じず、別のことを考えていた。このままソウルまで飛んでくれるのであろうか、これである。当時私はまだ大学生、4年になった所である。すでに4月も下旬、授業が始まっていないはずはない。授業の登録期限を帰国翌日に控え、それを逃すとその学期の授業が受けられないのだ。最悪、留年を余儀なくされる。飛び続けろとそれだけを念じていた。
しばらくすると、私の座っている右側の翼から煙を吹き出した。ジャンボジェットはエンジンが一つ動けば飛べると聞いていたが、他のエンジンに飛び火したのではヤバイ。この煙を見て、これで途中で着陸してしまうのだろうなと観念した。しかしまだ、インドくらいまで飛んで他の飛行機に振り替えられて帰れないかなあ……と考えていたのだから、我ながらずぶといものだ。
スチュワーデスたちはどこにいるのか姿を現わさない。30分くらい後、スチュワーデスがあわてて現われ、火の吹いている方の窓を閉めて回った。それまでは、火が見えていれば機内の落ち着きが無くなるのも分からなかったほど、あせっていたのか。彼女たちは客から何か言われてもほとんど返事せず、また消えてしまった。
さらに30分くらい後、バハレーンにまもなく着陸するというアナウンスが入った。後で聞いたら、右翼の煙は煙ではなく燃料を霧状にして棄てていたのだった。エンジンではなく翼の先から出ていたので、おかしいとは思っていた。そのまま着陸することもできないくらい危険でらしい。
無事着陸、機内は一斉の拍手、泣いて喜んでいる人も多い。バハレーンに戻ってしまったことで落ち込む私は、一人浮いている感じ。留年かも…。
飛行機にタラップは付かず、緊急脱出用のビニールスライダーの様なトンネルを使って飛行機から降りた。競う様に脱出していた先頭の方では怪我人も出たらしい。私は最後まで緊張もなく、ゆっくり降機した。脱出口は思ったより急で危なく、ちょっと驚いたが。機体から急いで離れる人々を尻目に、私は黒焦げのエンジンの撮影をしようとして怒られてしまった。しかし、なにか全く緊張感が、私には無かったのだ。
一旦乗客全員が待合室へ集められ、乗っていた飛行機はもう飛べないとの説明を受けた。正規運賃のチケットの人はちょうどあった日本航空に振り替えてもらっていたが、ほとんどの人が代わりの飛行機が来るのを待つことになった。後から考えるに、ねばれば振り替えてもらえただろうが、この時はそんなことは思いもつかなかった。
宿泊する事になり、機内に残していた荷物を取りに戻ったり、預けていた荷物の出て来るのを待ったり。
最初のバハレーン着陸前に夕食は済んでいた。入国を済ませ、バスでホテルへ、着いたのは深夜であった。ホテルはホリデイイン。大韓航空はツインベースで客を入れようとしたが、相部屋経験のほとんどない私はどうしても個室に泊まりたかった。最後までねばり、なんとか一人部屋をもらう。初めての高級ホテル滞在、通された部屋はツインで、ドアに貼ってある料金表を見ると、約1万8千円!喜んで部屋の見取り図を書いたりしてしまった。
翌朝の食事はバイキング形式で、超豪華版。代替機材のやり繰りがつかず、午後に出発時間を確認することに決まり、3分で3千5百円くらいする国際電話を1本のみ大韓航空のお金でかけられるとの説明を食事中に受けた。どうしても用事のあった私はここでも粘って電話を2本かけた。心配していた大学の授業登録は待ってもらえる事が分かり、一安心。そうなればもう気楽なものだ。
電話を2本で喜んでいた私だが、部屋から何本も国際電話を掛けかけ、お金を払わなかった人も大勢いた事をあとで知った。それどころか、部屋の冷蔵庫の中身を飲み尽くした猛者もいらしい。チェックアウト時に大韓航空職員が騒いでいたが、そのうち時間がなくなり、うやむやとなっていた。
昼食まで暇になったので外出したが、ものすごい熱さ。海の水はすんでいてきれいだが、海岸はオイルボールでベトベト。もしかしたら、昨夜、飛行機から捨てた燃料だろうか。砂漠の国だが街路樹もある。根元にはホースがあり24時間水を流しているのある。さすが産油国、金持ち国家だ。周りはホテルの建設ラッシュ。その裏には対照的に庶民の街が広がっていた。
喉が乾く。持っているのはもらった50フィルコイン一枚。店に入りオレンジの値段を聞くが、英語は通じない。オレンジを1つ持ち、もう一方の手にコインを持って出すとオヤジはコインを取って、あっちへ行けという感じ。当時1ディナールが500円くらいであったので、釣りもくれずひどいオヤジだと思ったが、後で1ディナールが1000フィルである事を知り、恥ずかしくなった。250円と思っていた50フィルが実は25円だったのだ。変な外国人だと思われたことであろう。このオレンジはかさかさでまずかった。
ホテルに戻ると出発は翌朝に決まっていた。帰国は2日遅れになるのか。
バックパッカーの日本人3人でビールを飲もうということになり、ホテルのバーへ入った。しかしなんと小瓶1本で約1200円!!止めようと話をしていると日本語で声がかかった。商社の人でご馳走しようという。おかげでこの高価なビールに有りついた。いくらくらいと思ったのと聞くので、1$くらいかなあと答えると、ここはイスラムの国だよとたしなめられた。まあそれならとその商社マン1$づつだけ徴収し、残りはおごってくれたのである。
昼食、そして夕食も、朝食と代わり映えがしない。これはちょっと期待外れ。
午後は1人でプールサイドに寝そべり、人が減ってからパンツで泳いだ。夜はテレビ、日本のアニメがいくつかやっている。『みなしごハッチ』がアラビア語を話しており、なんだかすごく変に感じた。
帰国フライトのサービスは最悪に終わった。それまであった日本語機内アナウンスはなし。いかにも寄せ集めのスチュワーデスたち、ファーストクラス用のチマチョゴリの制服を着て誤魔化しているが、引退していた人や研修中の人なのではと疑いたくなるほど。故障したのはジャンボジェットだったのに、代替便は小さな飛行機、ほぼ満席に近いほど混んでいるし…。
ソウル-東京は乗継ぎがなく、もう1泊と思っていたら、ノースウエスト便に振り替えられた。嫌ならホテルを用意するとは言われたが…。こうして、無事1日遅れでなんとか帰国。
実に貴重な体験であった。