パプアニューギニア紀行

 ある年のゴールデンウイーク、私は海外に行こうと企てた。当時の私は旅行会社勤務。ゴールデンウイークが暇であるはずはない。休みの許可がでたのは4月に入ってから。ゴールデンウイークの予約は当然のごとく厳しい。4月29日の土曜出発、5月7日の日曜帰着という都合良いフライトは普通に考えていては取れない。このパターンでは格安航空券は事実上存在しない。金はいくらでも出すから海外に行きたいと考える日本人が多すぎるのだ。私もその一人であった。
 会社のコンピュータで飛行機の予約状況はいつでも見る事ができた。近場の日本発のフライトを片っ端から調べると、行きのフライトは全日空のグアムが1席、コンチネンタルのサイパンが2席だけ見つかった。全日空は全便エコノミークラスの飛行機、コンチはビジネスクラスである。正規運賃のチケットしか考えられなかったのでビジネスにしたいところであるが、男一人でサイパンには行きたくはない。考えた結果、グアムからパプアニューギニアに飛ぶことに決めて、グアムの座席を押さえた。グアムからパプアニューギニアへの飛行機は週2便だが、接続も良かった。帰りはギリギリまで取れなかったが、なんとか最後にコンチネンタルのビジネスクラスを予約できた。行きのチケットは6万7千円を9パーセント引き(旅行会社のコミッションを全額割引いた)、帰りは現地購入で306$(正規運賃)、グアム~パプアニューギニアの往復も現地購入にして200$(正規往復割引運賃)。自分で予約だけして現地購入ができたので思ったよりは安くなった。(この後、規則が変わり、正規運賃である限り日本で買っても値段は同じになった。)

 出発前日、やはり仕事が忙しく深夜の1時半までかかり、タクシーで帰宅したのは2時を過ぎていた。朝10時発の飛行機に乗るために6時過ぎには家を出ねばならず文字通り寝るひまもなく空港へ。
 満席のはずの飛行機にはちらほら空席が見える。オーバーブックさせても他のフライトに振り替えられない状況だと予約はかえって少なめに取ることを後に知った。お盆でも正月でもキャンセル待ちのチケットで空港に行けば、まず乗れるそうだ。

 グアムの空港でニューギニア行きと成田行きのチケットを購入し、そのままニューギニア行きのフライトを待っていた。突然アナウンスが入り、飛行機が遅れ翌朝になると告げられた。ボードには、オンタイムと出たままなのだが…。
 仕方なくグアムに再入国し、航空会社手配のヒルトンホテルへ、夕食をとった後は死んだように眠る。朝6時発ということなので5時に起きたが、ドアの下にメッセージが2通。1通目は朝6時出発とあるが、2通目が変更で昼頃発。再び寝なおして遅い朝食、部屋に戻るとまたメッセージ。また変更で出発は翌日。短い休みなのにと怒りがこみあげるがどうしようもない。
 5$出してビーチサンダルを買い、12$出してシュノーケル3点セットを借り、ホテルの前でシュノーケリング。水は澄み、魚もサンゴもまあまあだが、2ヵ月前にモルジブに訪れているので物足りない。余計な出費をしてしまった。
 16時頃ひまを持て余したので、街へ行くことにした。公共バスがなく、ひたすら歩く。観光地を一通り回ったがおもしろくない。ただ疲れてしまい、レストランへ入った。カキ1ダースとビール2本で11$。ヒルトンホテルの夕食券をもらっているのに、とんでもない無駄使い。パプアニューギニア旅行のはずがグアムの高級ホテルにほりこまれ、感覚が完全に狂っている。
 また歩いてホテルに戻ったのが21時半、夕食券をレストランに頼み込みビール3本に代えてもらってまた飲んでしまった。

 パプアニューギニア旅行の目的はもちろん腰蓑だけの伝統的姿で暮らすダニ族の人々と会うことである。彼らはハイランド地方と呼ばれる高原地帯に住んでおり、首都ポートモレスビーから陸路はなく飛行機のみ。日本で国内線のチケットも購入していた。しかし予約した便にはもちろんもう乗れない。遅れたコンチネンタル航空が予約の変更してくれていた。しかしエアーニューギニアのチケットであったのにタルエアーという聞いたこともない飛行機会社への変更、チケットはノープロブレムと言われたが…。
 2日遅れでのパプアニューギニア・ポートモレスビー到着。ビザは空港で取得。入国審査の列が、自国民、ビザ所持者、ビザ不所持者に分かれ、ビザ不所持者には私一人。ビザ代を払うだけですぐ終り、荷物も預けていないので一番の入国となった。
 乗継ぎ案内のボードを見ると国内線はエアーニューギニアしかない。取りあえず国内ターミナルへ移動するがやはりエアーニューギニアしかなかった。おまけにこの日は目的地へのフライトはもうなかった。カウンターで事情を話すと、「オオ、タルエアー。」と驚かれ、建物の外に連れていかれる。遠くに掘っ立て小屋があり、それを指差される。時間がないので走ったが、着いたのは11時過ぎ。定刻出発11時ちょうどの飛行機に予約されていた。あの飛行機だと指差されたセスナ機はすでにプロペラを回し出発するところ。無線連絡で飛行機を止め、また私はそこまで走らされる。係官が追い掛けてきて、チケットをちぎるが、ボーディングパスはない。

 なんとか一日遅れでハイランド地方の中心都市ゴロカに到着。中心都市と言っても人口が1万人強の小さな町。飛行場の周りに町ができている。この地方は基本的には飛行場が先に造られ、その周りに人が集まり町を形成したので、どこでも空港から歩いて出るとそこが町の中心である。
 期待に胸を脹らませ来たニューギニアなのに、この町には何一つおもしろいものが見つからない。首都にある国立博物館よりも充実しているというこの町の博物館は、ほこりのかぶった展示物が小さな部屋に並べられているだけ。市場にいる人も全員が普通の服装、腰蓑で生活する姿はどこにもない。すっかりしらけ夕方4時にはホテルに戻り夕食、5時には寝て翌朝まで14時間寝続けた。出発してからここまでの3日間平均12時間以上寝ている。無理して休みを取り、残業を重ね、大枚をはたきここまで来た結果、寝てばかり。情けない。

ゴロカのマーケット

 パプアニューギニア(ハイランド地方だけかもしれないが)の特長の一つに静かなことがあげられる。初日は気づかずしけた所だと思っていたが、人々があまりしゃべらないのがその要因だったのだ。マーケットでは人が大勢いるのに呼び込みはなく、井戸端会議らしきものもない。バスターミナルへ行ってやっとこのことに気づいた。ターミナルといってもマーケットの脇に空き地があり、そこに車が何台か停まっているだけ。昨日通った時はその存在にも気づかず、駐車場だと思っていた。ハイエース型バンのミニバスは行き先表示を出しておらず、呼び込みもしていない。出発を待つ客も黙っているのでそれがバスだとは教えられなければ気が付かない。
 バスの走行中もスローな曲が小音量で流され、客は無口。車窓からはコーヒーや茶のプランテーションが延々と続く。人は結構いるのに、食物はどこで作っているのだろう。遠方まで見渡せるが耕作地らしきものは見当らず。

 マウントハーゲンへ着いた。町から7キロの所にある宿が、町中で一番安い宿の3分の1の値段だが、それでも10キナ(約1500円)。周りに食べる所がないので2食付きにせざるを得ず、23.5キナ(約3500円)、これできたない相部屋だ。昨日の宿もきれいであったが相部屋2食付きで20キナ(約3000円)、パプアニューギニアの物価は高い。外には食べるところなどほとんどなく、サンドイッチかチップスくらい。それも高い、値段を気にしたら旅のできない国だ。
 町にある唯一のコーヒーショップと7キロ先のホテルが同一オーナーの経営だった。17時に戻るオーナーの車に乗せてもらうことにして、荷物を預け町を散歩。ここまで来たら腰蓑でカッポする人が町にあふれているはずであった。パプアニューギニアに来ることに決めたきっかけの写真はここのマーケットであったし、ガイドブックもここで見れるかのごとく書いてあった。しかし、ふんどしにオノをさして歩く老人を数人見かけただけ。「5年くらい前なら結構いたけど、今は…。」と教えられがっくり。これではこの国に来た意味がない。
 夜、宿でビデオを見た。ニューギニア人の恋愛物。舞台は北ソロモン、ブーゲンビリア島の漁村。ストーリーはありきたりであったが、現代の風俗が分かり楽しめた。その中で、老人たちが酒の席で戦争のまねを日本語でやっていて大笑い。暗い体験ではなく、楽しい思いで話をしている感じであった。また祭りの時にみなで伝統衣装に着替えてさわいでいた。こういう時の写真に私は騙されてここまで来てしまったのか。

 帰りの飛行機チケットはここマウントハーゲンからであるが、この町でパプアニューギニア旅行を終えるのは納得がいかない。さらに奥地を目指すことにした。
 7キロ歩くのが嫌で、オーナーの出勤の車を待ち、翌朝町に戻ったのは10時。すぐにバスに乗るが、そのバスも出発したのは12時過ぎ。3時半にメンディに着いた時には雨。ここの人々も普通の服装である。最終日にここからマウントハーゲンに戻り、ポートモレスビーに飛ぶつもりで、ここへ来たがこれでは終われない。さらに奥、バスの走る最奥地タリまで行くことに決めた。

 メンディからタリへの移動中、ついに腰蓑をつけ、顔にペインティングした人の多い村を通過した。やっとパプアニューギニアに来た気がする。急坂では車が動かず、歩くこともしばしば。奥地に来た気分がますます高まり、この苦労も気にならない。

移動中の村で

 6時間ほどでタリ到着。バスは空港ターミナル前に着いた。まわりに十数軒の建物があるだけの小さな町だ。ここから先は荒れた道が30キロあるだけで、バスで到達できる最奥の町である。
 この小さな町にもゲストハウスがある。食事のできるのは、ファーストフード屋一軒のみ。メニューは肉ライス、チップス、コーヒー、コーラくらい。しかしそんなことは問題ではない。ここには髪の毛に鳥の羽などをさし、腰蓑をつけ、顔に赤や黄色、白などでペインティングした人がいるのだ。言葉は通じないが皆気さく、写真にポーズを取り、握手を求めてくる。昨日まで沈んでいた気分がウソのように晴れる。

ポーズを取る人

 飛行場は何ヶ所もフェンスが破られ通り道になっている。滑走路の脇で5~6人の人が車座になりビールを飲んでいた。私も誘われて仲間に入る。パプアニューギニアの酒屋ではどの町も24本のケースでしかビールを売っておらず、私はホテルで夜しかビールを飲めず飢えていた。冷えておらずまずいのについ333mlのビールを3本飲んでしまった。一人だけいた少年が英語をしゃべれたので、彼を介して話が弾む。
 彼らの正式な衣装は、蛇皮のヘヤーバンドに植物や鳥の羽根で頭を飾り、首から半月形の白い貝か骨をぶらさげ、腰蓑は植物の蔓のようなものを腰のまわりに巻つけ、前はそこから一枚布を垂らし、おしりの方は青い草で隠す、腰に骨飾りを作ってさす、そしてふくらはぎあたりに被覆導線を巻くというものだそうである。この町のペインティングしている人々は別の部族らしい。しかし上から下まで完全ないでたちの人はそうそういない。ヘヤーバンドが布くらいならまだよいが、腰蓑の代わりにズボンだったり、腰蓑はつけていても上半身に服を着てるなど。服を買えればそのほうが好ましいと思っているそうで、アンバランスでも服が手に入ればその部分だけ身につけるそうだ。完全な伝統衣装の人は飾り物がみすぼらしいのでよく分かる。この辺りの人が既製の服を着るようになるのはもうすぐのことであろう。

完全な伝統衣装では低く見られ、商店にも入れない

 我々の風習、習慣を見せたいから家に泊りに来いと彼らは言いだした。ゲストハウスに泊まっているからと断ったが、酔っ払いなので聞かない。一軒しか宿はないのだから彼らも場所を知っている。彼らの熱意に敗けてお世話になることにした。彼らは一緒に宿へ来て、すでに支払ってあったお金も取り戻してくれた。
 すぐと言われたがその家は遠かった。すぐに車道から離れ山道を歩く、やがて一人二人と家がこちらだからといなくなっていき、気がついたら英語を話す少年もいない。私を泊めてくれる人物が分かったのは彼だけになってからである。誰が泊めてくれるのかさえ分かっていなかったのだ。山の中には畑が広がっており、やがて最後に残った男の家が見えた。
 トタンをかまぼこ型に曲げただけのトイレ、小さな豚小屋、その向うに小屋がぽつんとある。カヤぶきで竹の壁、内部は仕切られて二部屋、奥の部屋は床が竹でできており6畳くらいの広さ。手前は4畳くらいの土間だが、真ん中にいろりがありトタンで囲っている。土間に竹のむしろを敷き座れるようにしてあり、壁側には何とベッドがあった。大きな長持ちがあり鍵がかかっている。竹編みの壁なのでそこに色々突きさして物を整理している。家族は夫婦2人と小さな子供2人。夕食は明るいうちにでて、肉ライス、コーヒーと紅茶つき。

泊めてもらった家・奥のベッドで眠った

 奥さんと子供2人は夕食後すぐに奥に入って寝てしまった。彼は言葉が全く通じないし、身振りで会話しようとしてもボーッとしているだけ。暗くてする事がないので私はベッドで先に寝てしまったが、いつまでも彼はボーッとしていた。
 夜中からだがかゆくて目が覚める。ベッドにたくさんの虫がいるようだが灯りもなくどうしようもない。雨が降りだしており嫌な気分。かゆみで朝まで眠れなかった。

 朝食はビスケットとさつまイモ、コーヒー、紅茶。雨は止んだ。昨日の約束で、今日はブッシュウォーキングに案内してもらうことになっていたが、案内にやってきたのは8才くらいの子供。町まで連れていかれただけ、まあよいかと思い町のまわりをぶらぶら。案内の子供はただついてくるだけ、昼食をご馳走してやっただけで満足をするかと思ったら金を要求、しかもかなりの金額だ。頭にきてそれ以降無視、一人でなんとか道を見つけ小屋に戻る。
 荷物を持ってもうホテルに移るつもりだったが、小屋に鍵がかかっていた。山の中の一軒家なのに用心深い。しかたないので畑でのんびり、結局4時間待ち遅くなって今日もここに泊まることになる。
 暗くなってから別の人の家に連れていかれる。この家の14才の少年が英語を少しだけ話せた。『カウカウ』と呼ばれる伝統食を作ってくれた。キャベツ、フキ、竹の子、ジャガイモ、さつまイモ、かぼちゃ、ツナ(缶)を蒸かして塩味をつけたもの。もったいぶって説明されたが、要は手に入るものを全部蒸かして塩をふっただけのような気がする。この家には昔の戦争で使ったという弓矢が飾っており、自慢げに見せてくれた。あげても良いが国外持ち出し禁止の品だから、ともったいつける。続いてちゃちで新しいのを持ってきて100$で買えとか言ってきた。あきれる。

出してもらったご馳走

 夕刻から音が聞こえていたのだが、昨日同族の男の子が死んだらしく葬式をやっている。大勢の女性が叫びながら練り歩き、最後には集会所へ。そこでいつまでも泣き叫んでいて不気味。
 この夜は良く眠れたが背中のぶつぶつは体中に広がっていた。この虫にやられた痕は1ヵ月くらい消えず残った。

 東京からタリまで5泊6日かかったが、帰りはバスを乗り継ぎ一日でマウントハーゲンへ、そこで1泊のあと、ポートモレスビーとグアム2度の飛行機乗り継ぎをへて、その日のうちに東京に。わずか1泊2日であった。