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混沌のハイチ

 まさにアフリカの世界、ハイチの第一印象である。ハイチはアフリカではなく、カリブ海第二の面積を誇るイスパニョーラ島の西半分を占める国だ。カリブの島でアフリカを感じるとは思ってもいなかった。しかし空港からタプタプと呼ばれる小型トラック改造のバスに乗り、首都ポルトープランスに入るとアフリカに来たような錯覚にとらわれた。全員が黒人、カラフルな服をまとっている。道路には、ぼろぼろの車が警笛を騒がしく鳴らしながらひしめきあっている。建物は薄汚れたビル群、そのまわりには木箱の小さな店が並ぶ。
 タプタプを降りるときの合図は、プスプスーと口で出す音、これもアフリカと同じ。広い歩道の真ん中に汚水が流れる溝があり、悪臭をはなっている。大小便の匂いがひどいと思ったら、いきなり目の前で若い女性が放尿を始めた。
 朝の8時だというのにひたすら暑い。汗だくになりながらホテルを探す。ようやく見つけたホテルでは全然言葉が通じない。クレオールと呼ばれるフランス語とアフリカの諸言語が交じった言葉がこの国では使われる。フランス領の国で奴隷であった人々の共通語が起源だ。数字だけはフランス語と同じであったので分かった。1泊6US$ということが分かりチェックインするが、暑くて暗い牢獄のような部屋である。

 両替の為、銀行に行った。20人くらいの列だが、1時間待っても2人しか進まない。困ったと思っていると後に並んでいた奴が両替しようと言ってきた。レートは1US$=5グルードとボードに出ており、20$を100グルードに変えてもらった。
 銀行を出るとすぐ横に両替屋がたむろしているのに気づいた。レートを聞くと1$=6.75グルード。失敗。「固定レートでブラックマーケットもない。」とガイドブックに書いてあったのを信用してしまったのだ。
 翌日気づいたのだが、10グルード以上の物に関してはたいていドルを単位に使う。これは1$=5グルードであった頃(公定は今でもそうだけど)の名残りで、たとえば6ドルと言われたら、それは6×5=30グルードのことなのだ。これをドルで払う必要はなく、5倍の単位としてドルというだけ。宿代の6ドルとは30クルードのこと、実質は5US$以下だったのだ。宿代は既に払っており、失敗だった。

 ツーリストインフォメーションに訪れた。しかし、暇そうな姉ちゃんがいるだけ。文字通りいるだけで何もしていない。英語は通じたが、バスターミナルの場所を聞いても知らないし、見所を聞いても知らない。何の資料もなく、何の情報もない。何の仕事をしているのかと聞くと、何もしていないとの答え。
 「英語がしゃべれるのでこの職を得て、給料がもらえる。だからここにいるだけだ。」
こう言われたら、会話をする気も失せた。
 ガイドブックにある所にいくつか行くが、全然面白くもない。レストランに入ったらクラーがあり、スイッチを入れてくてた。数秒後停電。暑くて食欲もほとんどない。
 明るいうちにホテルに戻ったが、停電で真っ暗。翌朝の5時半まで停電は続いた。信号も消えていた。全くとんでもない街。

 バスに5時間乗って、第2の街カップハイチアンへ。8ドルのホテルもあったが暗さと暑さに耐えかねて、海辺にある15ドル(実質11US$)のペンションへ。ここの食事は非常にうまかった。
 ハイチ料理の見た目は大したことがないのだが、味付けはうまいことが多い。フランスの影響なのであろうか。しかし高いだけでまずいところも中にはあった。

 カップハイチアンの郊外、約30キロの山上に巨大な城がある。19世紀初め、13年の歳月をかけて作られた巨大な城跡。高さ40m、厚さ4mの城壁を持ち、1万平方メートルの大きさの敷地内にはいくつもの大砲が並べられている。気違い王と呼ばれた王が大金を注ぎ込んでこの城を造り、それでも外敵に襲われるという不安に敗けてピストル自殺したという逸話がある。気違いじみたこの国にふさわしい、この国一の観光ポイント。ずらりと並ぶ錆びた砲弾の山が印象的であった。

 カップハイチアンからポルトプランスに戻るバスが途中故障。ガス欠かもしれない。修理するでもなく、ひだすら暑い中を待たされる。日陰もなく、風が熱い。1人、2人、3人とタプタプ(乗合小型トラック)を拾って行ってしまう。
 1時間ほど待ったが、修理もしていないので時間の無駄。私もやって来たタプタプに乗り込んだ。40分ほどでポルトプランスに着いた。案外近かったのだ。しかしポルトプランスのどこにいるのか分からない。
 きょろきょろしていると目の前で人がはねられた。はねたのは客を満載したタプタプ。はねた事に気がついて、一度は停車したタプタプであるが、そのまま助けずに行ってしまった。倒れている人のそばを、車は平気で走っていく。停まる車はない。見かねた数人の歩行者が、なんとか彼を歩道まで引きずって来た。生きている。しかし、歩道までけが人を引きずった人は、すぐに立ち去ってしまった。歩道にけが人は横たわったまま。倒れている人に注意を払う人はいない。10m向うにいたのだが、私には何もできなかった。ただ見ているだけ。
 この国で車にひかれれば、けがをしただけで終わりである。こんなに恐い国は他にない。このあと恐くなり、私はしばらく道を横断できなくなってしまった。

 下町に行くのも恐ろしく、最後でもあり、高級住宅街のゲストハウスに宿を取った。20ドル(実質15ドルUS$)で、設備は許せるが断水していた。

 まさにとんでもない国であった。

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この訪問(1990)のずっと後(2009)に、ハイチを再訪問。エッセイはありませんが、新しい旅情報が少しあるのでメモのページよりどうぞ

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